かんなぎ
11話終了、12話視聴中。
いわく「シリアス展開」なるものがはじまったんだそうだが。
われわれは「ドラマ」というものを見たがっている、一方で。
何が一方で、何が他方かというと、たとえば今日の一こ前のエントリ、オレが「あかね色」のヒロインに、けっこう言葉の真の(もともとの)意味で「萌えて」いる、そういうところでは別にドラマなんて欲していないんである。
転じて、さいきんのかんなぎ、ここには「ドラマ」ってのがあるし、それを求める自分(=視聴者)が、確かにいる。たとえば12話、仁くんが町のとある家に神薙神社の昔のことなどを尋ねにいくと、ボケたばあさんがいる、ばあさんはOP後のスポンサークレジットのバックで既に登場してる。さてばあさんは、おかみさんの呼びかけに対して、すごーい大きく間をあけてから、応える、カン高い声で。
かんなぎさまはおせわになりました くびつりがでたときもたすけてくださった」
そのシーン。でかい日本家屋、庭、松、灯篭、夕方の柔らかい光、鳥の声。
すごく連想するのが、唐突だけど村上春樹「ダンスダンスダンス」。上巻も終わりの方、主人公は、世話をする羽目になった女の子の父親の家に挨拶に行く、湘南のあたりである、父親はけっこうな金もちで、話をしてから家を出てくると夕方で、やはり長閑である。空気の重そうな、動かなそうな空気である。
だから何だってわけじゃなく、とくにそれが設定上で大きな意味を持つわけではないが、そういう「シーン(情景)」がある、在るということがそれがドラマなんじゃないかね。直感で書いてるけど。