そして不在の神について考えるも二日目を迎えた。
まあでもこれは内田先生の本に書いてあったんだがメシアというのはずっと来ていないのでこれからも待ち続けるがとりあえずずっとその座は不在なのである。つまり「いない」ということだ。
いないけど待つ。
まあこれはいわゆる旧約Oldテスタメントの方のユダヤ教の話だが。たるむーど。
仏教でも56億いくせんねん後あたりに救済が待っていることになっているのだが。それまで衆生はどろどろの現世で苦しみつつ生きるのである。
結局生きるのはドロドロで苦しいに決まっていると仏教は言う。言うってのは「現状に対してのものの見方」である。
来世で救済とか、現世でたのしむとか、徳を積んでみよとか、隣人を愛せとか、いろいろ言うが、なんでその話を聞くのかというと、その話は信じるに足りるとみなしたからだ。信じる。信用。ウソじゃないと判断。
というか「信じたい」。願望。
この世が全部ドロドロだけだなんて信じられない。
でも結局そういうことで多分ドロドロ説の方が合っているような気がするのである。
つづく(かもしれない)