こんばんわ。
虚しさをかみしめながらも自暴自棄にならず生きてく
ということを、どうやって実践するか考えていた。ところで高校生のときから思っていたが、践ってゆう字って、かっこいいね。オレは杉並区の都立に通っていたのだが、友人の友人が実践に通っており、その字をみて、これってどういう意味かわかんないけどかっこいいな^ と、思っていたのだった。practiceということなのかしら?
虚しさ・。という。
たとえば「全てではないものの、だいたい多くの人がしていること。だからそれは『普通』にカテゴライズされている場合が多い。そのことを、していないが故に、できないが故に、『愉しみ』を味わうことができないのね可哀そうに」
といわれかねない
ような、ことがある。
可哀そうという言葉はオレはこの世界でもっとも唾棄すべき言葉だと思っている。
今日のみたツイッターで。はるかぜちゃんと乙武先生が会話してて、そこにいろいろ素人が勝手に@リプライ飛ばしていたが、要するに、「身体障害をネタに笑いをつくること」について、「すべきでない」「だめ」「それは禁則事項」「人間として信じられない」とかいろいろあったわけだが。
オレの意見としては、どんなこと、どんなものであっても笑いのネタにするのは構わないと思っている。
それで「傷つく人がいるから」禁止、
という条件を持ち出す人は勿論いるのだが、これは大変に危険思想である。
傷つく人が一人でもいれば禁止しないといけないのか。
だったらすべてが禁止の世界になってしまう。
すべてが禁止というのは何もできない世界である。
最近のオレの思っていることは、価値として尊重するのがいいんじゃないかと思っているTopicは、「自由」 freedom
である。
なにをしても(その責任を負う限りにおいて)自由。
責任を負うというのは、それによって「傷つけられた」という人が出てきた場合に、それについての処理を請け負うあるいは最後まで付き合うことが条件になっているということだ。
他人の、「どう感じるか」について、あらかじめ「おそらく傷つくだろうから、これは止めておこう」ってゆう行動くらいアホらしいものはない。
他人がどう思うかについては、原則として「不可知」なのである。わかるわけない。知らないよ。
したがって、起こった事象について最後まで責任を負う覚悟付きで何でもしていいのである。
何でもしていい。
何をしてもいい。
あれ何の話だっけ。
もともとは虚しさについて書こうと思っていた。虚しいというのは「他人のしているアレが、オレにはできないんだなあ」という虚しさである。
旅行とか、それを埋めるための代償にすぎないのか。
とちょっと思ったけど、純旅行って、案外みんなしてないし、みんなその「超面白い価値」について知らないんだと思うんだ。他人の評価とかどうでもいいがともあれ面白いことをやってけばあとで後悔もクソッタレだと思うのであった。
ジャンプを買うのをやめたので感想なし。かわりに、いぬまるだしっはコミックスを買おう。