危険

個人特定は危険だが、まあオレ個人のことならいいでしょ別に。
さて問題は「いまひょっとしてオレは何か自分ではない者の感覚をかわりに味わっているのではないか」ってゆう。
わかりにくいですね。
オレのいいたいのは、さて、「普通だと思ってそのことを喜んでいる時、傍にいる他人の誰かは、その『普通』であることができなくて、喜びの声を聞いて苦しんでいる」ってことだ。
 ちょっと近づくがまだわかりにくい。
 えっと、大学に落ちた人がいて、そのことを知らないで、受かった人が喜んでいると、その落ちた人は、あんまりそういう歓喜の声など聞きたくないなあと思うでしょう。
 いい例ではないけど。
 
 なぜいい例ではないのか。
 例えば、落ちた人は、「がんばって合格すればよかったのにねえ」と言われる恐れがある。つまり落ちたのは自己責任って言われかねない。イヤな言葉だ。
 
 オレは自己責任とは思ったり思わなかったりしているが50/50だと思っている。
 
 不妊治療をしていて苦しんで「なかなかできないなあ」と思っている人が、その治療のことを知らないでいる他人だけど同僚の「子供ができてもうすぐ生まれるんですよ^−」とか言っている人の声を聞いて、そのまま平静ではいられないだろうとは思うのだが、こういう気分を代理で味わったみたいな気持を味わったと言ったら、オレはまた怒られるのだろうか。
 
世の中に条件がことなる色々な人間がいて色々に過ごしていることは事実だが多くの人がそのようにしていることを称して「普通」という。オレは昔からこの普通という言葉が大嫌いで、どうにかして普通でなくなるようにしようと考えて行動してきたので今の体たらくがある。低鱈苦。
 
なんにせよオレが傷ついたり怒ったり不穏になったりすることを避けていかないといけないしなんとかして冷静になりたいもんだと思っている。
 
 一番いいのは選択とかなんとか言うのをやめてどうでもいいというか何でもいいみたいな。
 
 だがしかし。普通の人たちがしていることをちょっとでも「オレもしたい」と思ったところがもうダメである。その瞬間から嫉妬になるし恨めしいと思うし混濁である。ぐちゃぐちゃ。怨恨になって私怨である。理由なき恨みでサツガイせよとか思っちゃう。
 知らない他人が遠くでしている分には問題ないのだが。困ったものだ。今後何回もいつもたくさん同じシチュがこれからやってくることは間違いなく、今ここで解決しないと同じ苦しみ苦み渋みエグみを何回も味わうのである。何回もやってると慣れるのかもしれないけどね。そういう手もあるか。
 
 まあまずは普通と普通じゃないを分けるのをやめたらいいと思うのだ。オレも普通じゃないが普通の人などどこにもいない。
 じっさいに全員に好かれている人もいないし。
 
 それにしてもいつも思うがきっとこういう嫉妬とか羨望とかの他人に対しての暗いぐろぐろな心というのは死ぬまでオレとともにあるんだろうなあ。感じなくなってもそれはただ感じられないだけで、認知が低下しただけのことだ。
 そもそも「どう思われるか」をまったく考えないのも考えすぎるのも同様におかしい。それよりはまあわりとどうでもいいくらいに思うといいと思う。考えすぎ。
 
 まあもし「誰からも何もどうとも思われていない」という状態があるとすればそれはクリアーでいいのだが、残念ながらそれはない。値踏みもあるし価値の上下をつけたりこう思われたいああ思われたいその他いろいろある。
 
 何を願ったとてそれは他人の心の問題なので、願うだけ無駄だ。というのが最近のオレの好みの考えかただ。
 オレがもっと関わって考えてよりそうべきはオレのこころのことであって他人のものではない。オレの認識だけがオレの傍にある(中には無い)。
 まあアレだ。このような『負の感情』を味わうこともなかなかできないかもしれない。オレはその「普通じゃない」ことを十分に最後までつらぬき通すんであればこの負のマイナスの感情も十全に記述しつくすべきだ。