5月9日(木)

2週間ぶりに週刊文春とYJ買いにいったが

2週間ぶりなんてものすごい長く感じるが

1ヶ月ぶりのフィーヤンはそんなに長くかんじなくて

あらもう1月たったのかしらくらいのもんだ

なんでかね

 

さあね

 

今日はややすずしいわけで今日こそフロにいく(きのうと

おととい行ってないから)

そうかんがえるとへえ~=~=と思うが

たいした問題でもない

 

あさおきてくうきがまだあさのくうきだ(これは亜熱帯では真夏には

消失するくうきだーまなつの朝はもうあさから「あさのくうきではない熱」を

もったままなのだ)

 

物理でみると雨粒は最大直径このくらいとか

雨の温帯と熱帯とではつぶの大きさが違うとか

プロがしる事実ってのがある

)(とラジオできいたはせべさん)

 

死は実際もんだい「こわくない」かどうかについては真剣に考える

必要があって

考えもするまえから先入見で「こわい」と思っているからそういう誤謬にとらわれるのであって考えなしに思うということは思うことに対して失礼で

 

それとは別に空をみてきれいとかあかるいなあとか

それになにか希望みたいな感情をくっつける思うのは

それはそれとしてそういうこともあるだろう(間違っているわけではなく

そこにある感情は人間がそこにいてそう思うならしかたない)

 

しかし「死」という普遍であってしかも個別であるものしかも

自分では絶対に体験できないものは

「未知」でありしかもそれは他人が多くそこを通っていてしかも

それについてなにの経験談ものこさないようなー

 

「死」みたいなむつかしいものを俎上にのせたのが間違いだった

 

もっと怪我とか病気にすればよかった

怪我がこわいとか病気がこわいとかね

こわいこわい言うてても何もはじまらない

怪我は運かもしれないし実力かもしれないし環境かもしれないし

眼や判断力などのセンサーかもしれない

つまりこれは「原因はなにか?原因をさがせ!」の話であってやっぱり

仏典の話なのである)ものごとにはすべて理(ことわり)がある

 

オレが空をみて希望を感じるのは理とはまた別の話で

気分がオレの外のほうをみていたのが

空をきっかけに

オレの内実のほう(希望がないと思っていたがあるかもしれない)に

眼が向いたというだけの

つまり心の方向の変化がそこに(空をみることをきっかけに)

生じただけかもしれない

空じゃなくて花だったかもしれないし

 

そこには必然がないので理もないのである

 

死は必然なので当然理があるだろうなあ

 

怪我や病気は必然か?

あるいみでは必然度は高いだろうなアクシデント

アクシデントが〇ゼロのまましんでいく人も

すくないだろうからな(確率問題?)

 

朝からこういうことを考えるのはアレだが死について

考えるのはムダではない

死があるからこそいまの生に希望をもつことになるのだオレは

オレがそう思うならそうなんだろう(トートロジー