ゆうがた

土曜ワイドラジオ東京。昔の人は昔のことを言い昔はよかったといい昔は全部が正常で正しくていいありかたをしていたという。
 そんなわけない。
 ただ変わっただけだ。
 
 当時あったものだって、さらにそのときの老人から酷評されてたに違いないのだ。繰り返す。
 
 でもまあ老人は元気にやってくれ。
 
 みな自分がいちばん輝いていたときに戻っていくのだ。
 
 うちの祖母は死ぬまえに認知症状が爆発してよく徘徊しておりちょっとしたスキに家をぬけだして子供のころに住んでいた浜松市の中心部へとうろうろ歩き出していたそうな。
 そのころが良かったいい思い出だったんだろうな。
 
 東御市とか上田市とかを走ってきた。さむい。まあさむいわ。そして膝まわり靭帯が痛む。いつものことだ。いいです。歩けるし。それでも最後は痛くなるんだけど。
 
 新年ということで今日の信濃毎日新聞は書評欄が書評子みんなで一冊すすめる企画。
 面白い。いろんな視点。
 
 さいきん本を読まないでネットばかり見ているんだが、ネットはネットで視点を定めると面白い。
 最近は「老いて」「変わる」ことについていろいろみている。どうしても、老いた本人の語りというのは少ないので、老いた人を介護とかする人の手記になる。
 まあうちの父母も祖母を介護していたわけだが。
 さいきんオレがグループホームのことを考えはじめたわけでそこから「おいておかしくなった人」の行動思考について考えており、
 これはおそらくはだんだん時間をかけておかしくなっていっているのである。
 そしてそのうちに時系列がおかしくなって他人と合わなくなる。独自の時間軸。タイムスリップみたいなもんである。
 
 そこで、そういう人の安全を確保するにはどうすればいいのかねえ、って話である。とにかく時間軸がおかしい人は、「どこかへ」行きたがるのである。ここではないどこかへ。それを実践しようとして家とか施設とかその場所から出ていこうとする、どこに行きたいのかもわからないくせにである。
 そんな人のために「アルツハイマーのためのバス停」があるわけだが
 http://mojix.org/2012/08/26/alzheimer-bus-stop
「モジログ」さまより。
 
 でも、現実のありさまとは別に、「どこか、ここではない場所にいきたい」という心性は、誰の胸にもあるわけである。オレにだってある。抑制してるだけである。
 老いて抑制のはずれた方はそのようにいろいろ解放しているわけである。
 オレもおそらくは老いた父からさんざん恨みごとを言われるであろう。どうだろうか。わからん。
 母に関しては「オレは母のことを好きではない」と規定したのでとりあえず当面はなんとかなる。恨み言を言われてもお互い様である。ともに水瓶座のABであるし相互に嫌悪しかないだろう。目出度し。