よる

仕事おわり家にかえる。つらい、車をぶつけた。つらい、人をころばせた。それらの事象の原因はオレ自身の人間の中心の精神の態度のハラハラの中にある。
とすればそれを変える(鍛練する)(修正する)(鍛え直す)ことなどできるのだろうかできなかったらそれはいつもそこにあることになる。人間が「オレは変わる」と言うことほど空しいものはない、人間がそこにあるように成ったことの裏にはそのようになるように行動してきた無数の無量の大数の行動決定があるしそれらが彼をして彼ならしめたのだ。だから「変える」ということはそれらを一旦否定して無に帰してからの話であるが、人間の経験というものをリセットすることはできない。
不可能だ。
 
一旦起きてしまったことは、消せないし、それを消すほどの影響力のある新しい事象というのは、なんだろう、ほとんど不可能なのではないだろうか。
 
だからこそ、「ヴィンランド・サガ」を読んでいて感じるかんじというのがあるのである。それは人間が変化する物語である。殺人闘争を生業とするような殺伐とした世界に身を堕した少年がいかにして憎しみではなく殺さないという方法で人間との間の問題を処理する術を身につけたか。
殺すという方法から殺さないという方法へと変わるのは180度の変換である。
 
 オレのやっていることなどまったくもってほとんどなにもしていないに等しいと思うことがある。
 お宅訪問して何かをして何かの言葉を発している。
 
 人間が「治る」「治癒する」という+がそこにあるというのが治療であるが、果たして本当にそれは治る方向に向いているのか、
 オレが思うのはいつもそれは本人がそれを思ってそれについて努力するという自覚があることが最低限の条件であってそれが無ければ絶対に治ることなどないと思っているわけである、
 
 しかしなんだろう。
 
 貯めてあるラジオ。録音の。 サンソンとか、貯めておくと、聴き返してとても面白い。こういうどうにもならないダウンの時に最適のBGM。聴いている、きいている、そのまま寝てしまう。・・。