朝からなんですけど昨日の続きでひたすらエルフェンリートをみていたんだ。そして合間に休憩でニュースサイトを見ていたら、ちょっと他にかまけていた間にあかね色が最終回を迎えていてしかも○○○○エンドだったことまで見出しに書いてあるではないか。ああー。そういうエンドかい。見る前に知ってしまった。残念だ。しかし見るけどね。
まあ晴れだしいいではないか穏やかな年末。
さっきドガドガ7をちらっと見ていたが、本当に桃子はすべての動きが面白えなあ。
あと 最近気になることとして とらドラ!の原作とアニメについてなのであるが
http://keiesworks.blog122.fc2.com/blog-entry-263.html「アニメ版『とらドラ!』における「普通さの凄み」を断固として擁護する、あるいは「長井龍雪」のために。」
http://ralf-halfmoon.jugem.jp/?eid=296「アニメ版「とらドラ!」が物足りない理由」
とりあえず二つ貼ってみた。
Kワークスさんの「普通の擁護」は、わかる気がする。でも正直いうと、「世間の意見」について割れてるかどうかは、よくわからない。
もうひとつの方、アニメが物足りないのは原作での細部をはしょりすぎてるんではないかという考えですが。それもわかる。たしかに原作は濃密で細かくて、みんな生きている気がする。
前からオレのこだわりとして、いまだに北村という男の造型がわからない、というのは、これは原作でもアニメでも共通してることなのだが、結局、思うところとしては、
ある作品で焦点がメインヒロイン(男女問わず)に当たっているかぎりは、まわりのフォーカスがボケても仕方ないのではないか、ということだ。
話に大筋があって、メインストリームがあるのであれば、その周囲については、情報量が限られているところ(アニメ)では、ボカすしかないだろう。しかしもともと濃密な周囲の人物たちがいるからこそ、アニメでも(他のアニメにくらべたらよっぽど)メインの周囲を飾るサブとして登場してきていて、それを、視聴者であるオレとかが贅沢にも「唐突すぐる」とか「何を考えてるのかわからん」とかほざくわけだが。
もともと主人公とそのまわりの数人という本当に限られた人物たちによる劇なら、もう思う存分できるわけだ細かい描写。たとえば紅。
うーんそうなるとやっぱり、何かが足りないのだろうか???
12話まで見ているが、いまだに、人間としてわかるのは大河竜児あみの3人だけだ。みのりんは意図的に竜児に対して「自分自身を見せる」ことを回避しているのは分かるが。ことここに及んでまだわからんことが多すぎるのはやはり頂けないか。
ところで改めて考えると「普通」の定義って難しいですね。
まあいろいろ考えますわ。