疑問

http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20091205
「この国は“無駄”で食っている - Chikirinの日記 」
ですが、ひとつだけ疑問がある。
 
この記事中に
”一方で、社会の全体100人のうち、95人が水色さんの状態だとする。これを「総中流社会」という。一部にはもちろん貧しい人もいる。しかし95人が経済的に困っていないから、たった5人を助けるのは難しくない。自分の痛みをほとんど感じることなく弱者を助けることができる。高度成長期に日本が作り上げてきた社会はそういう社会だった。”
 
という部分がある。
 
なんかそういう風にみると、この「高度成長期に日本がつくりあげてきた社会」は理想社会に読めるよ。 
 
でも本当にそうだったのん????
 
 どんな社会も上と中と下がいたはずだ。
 そして中が95だった、下が5だった、95はすこしずつの力を寄せ合って5を助けていた、だから5は助かった、
 と読める。
 まあ「助けることができる」としか書いてないから、実際に助けたか助けなかったかは知らん。 
 
 オレが思うに、実際には助けなかったのだと思う。
 というか助ける仕組みなどなかったと思う。
 
 実際にがんばって貧乏のままですごしていた人がたくさんいたのは事実だと思うし、彼らは「誰かの助けをうけた」わけではないと思う。歯をくいしばって貧乏に耐えただけだ。その結果として生き延びた。
 
 総中流なんていうと95が全員豊かのように見えるが、事実上そんなこたーなかった。
 全員豊かな社会などないのだ。
 
 いやここにデータとか置けないので、オレの意見は「感じ」でしかない。
 
 最近考えていることとして「共生」がいかに難しいかだが、つまり共生には互恵関係が必要なのだが、
 そのことでいうと高度成長期というのは決してジャパニーズドリームなどではなかったと思うし食うか食われるかがそこにあったと思う。「創造的な仕事がしたい」なんて言うやつはほとんどいなかったと思うし、今よりもっと「大きい会社が善」だったと思うし、高卒と大卒の格差は歴然とあったと思うし、つまるところ「歯をくいしばっていた」人たちというのは単純労働とか繰り返し労働とかかけこみセールスとか劣悪な残業とかしまくっていただけだと思う。それを当然のものとしてとらえていた。
 それに耐えられないものはどっかに去っていくのであってこれが普通の社会だろ。
 (例外なくすべての人を助けるというのは、例外なくすべての人が助からないのと同じくらい、ありえない話だ。)
 
 いまの社会が95:5から70:30になっているというのはあくまで比喩だが、じっさいには二極分化の進行というよりも貧乏の多様化と歯止めなさ、って言ってみたい。歯止めないというのは「面倒くさいが狂気のはじまり」ってゆう話とも関連する。いや最近よみはじめた”「狂い」の構造” (扶桑社新書) の冒頭の話なんだけど。おもしろいからいいぞ。