ライブ(坂本真綾@名古屋国際会議場センチュリーホール 20110326 )

真綾さんは日本一理屈っぽい。
 
 さて参加してきました。坂本真綾ライブツアーYou can't catch me(再開)。
 
 超書きあぐねている。
 
 思ったことをそのまま書くのが何と難しいことか。
 
 まあとにかく思った。真綾さんは一生懸命いまの自分の考えていること思っていることを伝えようと長い長いMCをつかって話してくれたしオーディエンスはそれを真剣にきいた。
 それと「ライブの高揚」を両立させることは、おそらくはものすごい困難である。
 
 なぜならライブの高揚とは何も考えずに音と声に、歌に、こころをのせて、ただ感じるままに体を動かすことだからだ。
 
 でも「考えていることを言葉にして語る」ことは、論理的な脳を使うことであって理性。
 MCでは真綾さんはまったくもって「面倒くさい人」であった。
 
 オレの書き方は乱暴であるけれどもオレがそう思ったのでしょうがない。そのまま書く。真綾さんはめんどうくさい人である。どうしてそんなに深く考えないといけないのか。そんな、他人のことは放っておけばいいじゃない。人間は神ではない、他人にたいして語りかけることは優先順位一番にしなくていいんじゃないの? 
 
 でも真綾さんはそういう全部を、やらなきゃいけないと思っていて実際に実行している人だ(だから彼女は超めんどうくさい人なのである)。
 
 そしてMCは超長くなった。
 
 あと今日感じたことは、もちろん「復興にむけての長い時間のかかること」だけではなく「自分のふるさと東京がいま沈滞していること」もあった。
 たしかに東京は暗い。今日オレは東京経由で名古屋に来たが東京はどこの駅も昼間の照明を暗くして電力をなんとかしようとしている(実際にそれがどのくらい何を効果もたらしているかは、オレは懐疑的である)。
 真綾さんにとって東京はふるさとで東京タワーはふるさとの日常の象徴(いつもそこにある)なのだそうだ。
 
 ちゃんと最後には「ポケットを空にして」であった。
 
 さてライブとしてはどうなったのか? 

 
もちろん、ライブは「高揚」をもって成立した。
 はじめはぎくしゃくしていた(なにしろはじめに真綾さんでてきて、音楽なしで、真綾さんの語る「今日のライブ開催の背景」からはじまるという異例のライブである。普通に音楽にノるどころではない雰囲気もある)。
 しかしだんだんと「音楽」にオレたちはつかまれていった。
 音楽はうれしくてたのしい。
 そして感情がある。
 
 オレは正直いって真綾さんは作曲はしなくていいんじゃないかなーと思っている人間である。作詞はすごいと思うけど。でもまあ、とにかく真綾さんは「自分の中身をどうにかして形にして外に出さないと気が済まない」人なのである。
 
 中身を外に出すだけであればそれは「声」でいいのである。
 
 歌詞の内容がどうであれ、それはこころなので、「悲しくてやりきれない」を唄われたときにはオレは涙してぽろんと落ちた。
 
 結局うたをききたくて集まったのである我々は。 
 うたは、静かに歌われたときにしみじみと感じ、高らかに歌われて興奮する。
 
  マジックナンバー
  
 ネタバレ?になるけれども。
 中盤の静かに聴きこむあたりからあとの、
風待ちジェットからの流れ、光あれまでの、上げていく流れ。高揚、アップテンポでただリズムを体で刻むだけでいい。
 
 とても心がたかまった。
 
 そのあたりが今日のライブのもっともよかったところだ。
 
 本来の金とってライブする歌手の人がそのパフォーマンスでなにかメッセージを観客に与えることは別のことだと思う。この書き方だと乱暴すぎるのでもう一回ちゃんと書く。
 ライブを見にいくということは歌手の人のパフォーマンスを見たいから金はらっていくのだ。別にお説教されたいわけではなくなにかの信条を確信したくていくわけでもない。
 でも真綾さんという人は、それが説教の意思ではなくても、語る言葉が他人のこころをアップグレードに導きたいような方向性を示す言葉になってしまうのである。
 それを喜んできく、ことばを受け入れたいと思っているやつらがオーディエンスである。
 
 幸福な関係なのかそれとも。 
 
 わからないけど、ともあれ、関係性という意味で、ライブをする/見る、という関係よりももうすこしだけ踏み込んで、ライブを「つくる/ともにつくる」ような気がしたのである。
 
 そこにいて彼女の声を希求したことが彼女のこころに何かをもたらしたような気がする結果になった。
  
 明日の大阪でまたなにかさらに感じたりするのが楽しみ。