今日はたのしい教室をやりました。たのしかった。何が楽しかったって、あれね、コミュニケーションというか、こうやったらこうなったという「効果」が出たことね。やっぱ効果ないとね。それをもたらす。
なかなか運動しているすがたが美しいというのは完成に近くないと難しいと思う。難しい。美しいって、あれね、けっこう「止まってる」ことが多くて。動画で美人ってゆうのあんまりないし。静止画ならね。動画の中のキャプでマジックってのあるけど。
http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20110628
とある講演会の感想 (Chikirinの日記)
相手は超有名人であり、つっこみどころをつくっておいてつっこませる人でもあるようにようなので、こういうのに真面目に「いやーそれちょっとオレは違うと思う」と言うのは無意味無駄でもある。
でも言いたいのでちょっと書く。
まず。こうゆう問題を「俯瞰して」一般解をみちびくのはもう無理で、やったら害になること、だと思うのである。
もはや全ての人に対しての「こういうのはこうで、こうしたらこう、あっちよりこっちの方が価値ある」などとは言えない世界なのではないかと思う。
コミュニケーションと希望を与えるものが
仕事と家族と個人の趣味
の3つ(のうちどれか最低ひとつ)
だという。
まあそうですね。
しかし、「かつての日本」が「何にも考えずに社会の波に流されているだけで幸せになれた時代」だったと語られる。コミュニケーションがもたらされていて希望もあったと。
総量でみたらそうなのか?
総量で見ること自体がまずいと思うのだオレは。日本について何か語るときにかならず「いい時代」という言い方をする、そのことをもうやめてほしい。こういう時代だったと言うのはいいが、「いい」という価値判断を入れると、比較になってしまい、今が「わるい」時代になる。
そんなの知るか。
オレが生きてるかぎりオレの生きてる時代は全部いい時代だ。
すくなくとも1970年生まれのオレにとって高度成長というものは『家にビデオデッキがやってきた』くらいしか知らない。あとは適当にいろいろなものが存在していたが車で旅行というのもやったしボーイスカウトもやったし海外赴任についていく(そして現地の学校に通う)もやったが、これが「いい時代」だったからできたかといえば、そうではなく、オレの親が仕事をがんばったからできたのだ。
何も考えずに流されていて幸せになれるわけねえ。それはいつもいつでもそうだったはずだ。
なんとなく適当にまわりがセッティングしてくれて誰でも結婚するものだと言われていた時代だったから皆が結婚して?
じゃあ全員結婚したのか?
そんなことはない。生涯未婚率がゼロである時代などないのだ。(統計をとるまでもなく)
オレが今の現代に価値を唯一みとめるならば、それは、より、「世界が本当はぜんぜん均質などではなく、バラバラでバラエティに富んでいて、どのように何を考え何を行動しようとも、それは原則として個人の自由である」ところである。その傾向は昭和から平成にかけて確実に進んでいるのだと思う。
コミュニケーションと希望が総量として減少したのだとしてもそれは社会や時代の価値の低減を意味しない。そんなのは全世界に共通した価値尺度ではないのである。
とオレは思う。オレの思っていることを素直に書くとこうなるのだが、はたしてどのくらいの人がこれをそうだと思うだろうか。おそらくオレ以外には50人くらいだと思う。そのうち48人くらいはWEBの片隅にこんな文書があることさえしらずに生きていくのだ。
風呂いくか。