家についた。
おちつく。
ひさしぶりに東京さいったら人がいっぱいいた。
とくに国立新美術館。幼稚園児がいた。というかenfantって言うほうがイメージ正しい。あくまでイメージですけど・
はじめは、平日でもさすがに東京は人が多いなーと思ってたら、まず。日本人向け私立の幼稚園の情操教育的な子供と母親軍団とひとりの先生の集団がきた。こいつらは比較的まとまって、おはなしを聴いている。母親軍団はそれなりにコンサバだったりカジュアルだったり。
そのあと、いかにもインターナショナルスクール東京みたいなかんじの多国籍幼児軍団がやってきた。こいつらは元気がよく、すれすれで絵の10cmくらい近くまでいってしまって係員も気が気ではない。
しかし小グループにそれぞれなんか先生みたいな親みたいなよくわからんが大人がついていて、それぞれのコーナーで質問を投げかけたりしている。
それなりにやつらも見ていた。
日本人の幼児ももちろんかわいいのだが、習性として、ガイジンの幼児のかわゆさといったらもうたまらんものがある。男児はりりしく、女児は鮮やかである。なんじゃこいつらは。ええもん見た。
この「モダンーアート、アメリカン」というくくりであるが、つまるところ、パトロンとしてアメリカの美術界を支えたダンカン・フィリップスのコレクションである。
19世紀から20世紀中盤までの。
さまざまなアメリカ美術界の、記念すべきポイントがおさえられている。
アメリカ美術といってもこの当時のものはヨーロッパからみれば「辺境のもの」にすぎない扱いをうけていたようである。まあ日本のソレも同様なんだけど。
でも世界の中心はヨーロッパでもどこでもなく、中心は存在しないというのがいまの考え方である。
されども、新しい流れがどこかで生まれると、それが波及してくる。印象派、抽象、キュビズム、その他。
一番印象にのこったのはニューヨークを描いたシーラーである。
チャールズ・シーラー「摩天楼」。
プレシジョニズム(精密派)。
写実でありながら抽象でもあり。のちのスーパーリアリズムのさきがけ。
たしかに、抽象である。
彼は写真をとってその写真をみながらなんどもくりかえし試行錯誤しつつ絵を描いたそうだ。そのようにして絵という形でいいたいことが現れる、というか写真の情報からそぎ落とされて残ったものが絵になる。
ジョージア・オキーフも、そのように、抽象について、「取捨選択」を語っていたそうだ。
オキーフはエロであるとオレは思っており、葉っぱが女性器にみえて仕方がない。正直な感想。
その他、南部から北部への大衆大移動であったり、ロスコの作品に暖かさを感じたり、いろいろあったがまったく多様な展覧会だった。
アメリカ行きたい。
そして写実と写真とトレースと背景とについて改めて考えたのでもあった。
畠山直哉展。これはたまたまなのだが、行く日が学芸員レクチャーある日ということで本当にラッキーである。
写真美術館はけっこう小さいところで、総体的な「回顧展」みたいな大きいものはできず、それで、どういう切り口で展覧会を行うか考えた結果、人間と自然みたいなテーマになったそうだ。
なにしろユングフラウヨッホの写真がすごい。
スイス。
雪山。かっこいい。しかし真ん中になにかある
よく見ると建物だ。
さらによく見ると点のようなつぶが人間だ。登山者か。
そういうなんか信じられないようなスケールである。空撮なんだそうですけど。それにしても空から撮って、あの、精密さ、どやってあんなに画素が細かくなるんだろう。中判カメラを使用というが。技法もあるんだろうなあ。大きいプリントⅡする方法とか。
BLASTS(石灰石の鉱山においての発破の近接画像のスライドショー)もすごかった。岩が砕けるのだ・ずわわーん、と。リモートで撮ったそうですけど。それにしてもすごい。あんな映像みたことない。まさにエネルギー爆発。
陸前高田の、地震直後ーそれからーの写真群は、たしかに衝撃だったかもしれないが、正直あまりつたわってこなかった。それよりは地震以前のうつくしいスライドショーの方が記憶に残る。
こちらは、さすがに子供はいなかった、若者が多い。平日だが大学生ならこれるのだろう。若者は写真が好きだ。いまや。そして女子が多い。女子は写真が好きだ。確実に言える。しかも可愛い感じの人が多い。人を見にいった面もある。
メガネ。さっき「かわいい」連呼したからもういいや。
買ったのはprodesign denmark の黒ピンク(7619)。いいよ〜とても。
バネ蝶番ってはじめて買った。またいいのが増えた。
そういうわけで・
とくに絵画展みたいな強烈な個性のに行くといつも思うのだが、「他人なんかどうでもいいからしたいことを強烈にやりまくる」意欲が出る。いいことだ。
表現というのは本当にエネルギーだ。
(メモ。メガネが宅急便でとどいたら、いまのsutroをシリコンやってもらうために向こうに送ること。忘れない。)