考え方。
カーネマン「ファスト&スロー」がほしいのだがなんかアマゾンで買うのをためらっておりリアル書店でさがそうかなあと思っている。
なかなかないだろうが。
おおおキンドルだと945円!これは素晴らしいなあ。ひかれるなあ。買っちゃうか。
さてそれに関連して考えたり認知や判断したり感情をコントロールしたり、それについて評価したりすることについて。まあそれらをひっくるめると広義での「認知」ということになるのだと思う。
というのは「認知症」というのが、まとめてしまうと不安の病であり、落ち着かず、自分を保っていられず、自分と世界とのつながりが断ち切られたものであり、それはつまり「他者と自分」「現在の時間と自分」「過去と自分」などの関係性が理解できなくなってしまった、言葉を他人から投げかけられても理解できなくなってしまった、などの精神能力の低下であるからだと思う。そのように理解している。
で。
自己評価ということを考える。たしかにオレは確実な適応障害であり、他人との交流に不安があり、パニックになりやすく、他人との友好的な中長期関係性をつくることができない人間だが、
それでもなんとかかんとか、いままだ生きていることが「なんとかなっている」ことの証明にはならんだろうか。
なると思う。(肯定的自己評価)
ねがわくばもうちょっと。
最近はなるべく組織での問題を「こんなちっぽけな田舎の組織でくだらん理由で内ゲバとかくだらねえ・・・」と思うようにしている。つまりどうでもいいという評価。
そうなんだねえ。オレにとってはどうでもいいことなわけだ。オレの職場におけるゴタゴタというのは。というのはオレ自身にとって大事なことというのはそこではなくて、
たぶん、オレ自身にとって充実していると思う時間をすごすこと
であろうと。
好い人と会話をするとか、ちょっとでも仕事をつうじて他人の助けになることをするとか、おいしいものを食うとか、いい景色を見るとか、興味深い本よみテレビみて社会について考えてそれを文章にするとかであろうと思う。
それができていれば「肯定」でいいんだと思うし、たぶん、ちょこちょことはできていて、現状、いちおう肯定だろう。
いままでずっと「まだ全然なにもいいことなんてできてないしこれからまだまだ体制をつくっていかないと理想にほど遠い」とか思っていたがそれは理想が高すぎるのだ。
たぶんそうなんだろう。