ゆうがた

アマゾンで、「また会う日まで」買った。そのうちやってくる。ジョン・アーヴィングである。昔から読んでいる。
 
個人的に仕事でいっこのこしている話があって、これは7日8日あたりで解決しなくてはいけない(遅くなるとそれだけこじれる話なので。
 
 こういうものを抱えている時点で憂鬱なのであるが、まあもともとが最悪ならば、何個抱えていても最悪には変わりないというメリットがあるのである。どういうへりくつだ。
 
 後輩ちゃんにラジオのCDRわたしてきた。かわいい。
 
 どうしてアーヴィングのような長編ほんとに長いやつが好きかというと別の人生を感じさせてくれるのは貴重だからである。別の人生。オレの人生ではない別の。
 「オリバー・ツイスト」も読んでいてなかなか進まないが、オリバーくんの悲惨な毎日はそれなりに読み応えがある。面白いとは言えない、まだ。悪党どもはそれぞれに悪をつくしていて彼らが必死で、そこは面白い。あと彼らは人の死をなんとも思っていなくてそこがなんかリアリティがありそうな気がする。これもまた文明だという気がする。
 
 仕事とかぜんぜん重要じゃないと、思いたい、そういうのがオレの理想で、もう一方で「仕事に集中しすぎている」のもオレの理想だ。どっちも極端だ。
 こないだの件でいうとこのような「どっちかにふれる極端」を求める気持ちこそが危険なのだが。
 
 まあそりゃスッキリしたいよ。仕事の内容で弱いところとか全部なくしていきたいし。
 
 だが最早オレの力ではこの組織ではオレはどうにもならんのである。アカンの介。
 
 だんだん正直になってきている。オレはそういうわけで限界があってそこに挑戦して突き破るほどのバイタリティがないのである。というかこれはもう無理だと観念しているのである。できんことをチャレンジするのはそれがよほどオレにとっての死活的な価値があるときだけだ。というかそう思えるときだけだ。
 
 オレにとっての死活的な価値というのはやはり仕事以外にあるような気がするのである。
 たとえば料理を毎日自分でつくって自分のからだを自分でつくるとか。食べることは他人に左右されるとかまっぴらであるから。
 
 というか人つきあい自体がオレにとっては価値がかなり低い。
 
 日記というのはたいがい「納得できない現実がオレにとっての認知的不協和であるので、それを解消むりやりするために合理化の理屈をととのえたり、そもそもオレはそれ好きじゃなかったからと言って脳をだますためのものだ」という考え方。
 
 人つきあいがしたいわけ?それは違うだろう。架空の理想はあるけど。