よる

帰宅した。
さあこれでこころおきなく映画感想が書ける。
 「劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [前編] 始まりの物語」
である。
 
ほむらちゃーん。
まどマギ自体は、テレビ最終回で、完全に円環が閉じてしまってそこからさらに何かもう引き出せない構造をつくってしまったから、映画で新しいことが何か起こるわけではない。
そこがエヴァとは違うところだ。
 
 しかしこの劇場版は何が価値があるかというと、「同じストーリーを愚直にかつ執拗に反復した」ことに価値があるんだと思う。
 執拗に。
 
 そこではオレのようなテレビ版を細切れに見ていてなんとなくぞわっとしていたやつが圧倒されるような流れがある。
 そしてあらゆるテレビ版の各話のサブタイに使われた言葉台詞フレーズがあらためてはっきりと語られる。
 
 正しいことをしようとして全てがわるくなっていく。
 
 オレはなんとなくこれをみながらスクールデイズのことを考えていた。衝撃というかショックでいうとスクイズは恐ろしい話だった。物語とはいいたくないような気がするがあれはアンチ物語なんじゃないかと思う。
 
 整理する。
まどマギの基本構造は、
1.インキュベーターはエネルギーを欲している
2.インキュ=ウベェは、まどかを狙った
3. give and take の契約だと言ってせまる
4.先にさやかちゃんが契約してしまう
5.おかげでいろいろ契約の中身がわかる
6.さやかちゃん魔女になる
7.ここからは映画の後篇です
 
というもの。
 
オレがテレビ版をみていて思っていたのは、さやかちゃんには悪いけどさやかちゃんは邪魔で、さいごには結局ほむほむしており、千和さんがすげえ、という最終結論になってしまうのであった。
 
 しかし映画をみているといろいろ思うところがあった。
 
 アンチ物語と言ったのは、「物語にあるべき『なにか欠けたものの充足』がありえない」からである。
 スクイズについて言えば、欲望があってそれを充足させようとしたらかえってぜんぜん足りなくなってしまって、それの不都合は殺人でもしないと購えなかった、ということだと思う。
 で、まどマギでの「アンチ」は、どのあたりだろうか。
 
 たぶんオレが今日思ったのは、そもそもまどかたちの世界は、もしインキュベーターがやってこなければそれなりに不条理ながらも許容範囲の内ですごせていただろうということだ、上条くんは事故があって手が動かないからヴァイオリンを弾けなくなってしまっているがそれはそれであり命はあるのだから他の選択肢を探すなどすればいいことであってさやかちゃんが命を捧げることはぜんぜんないのである。
 他人を想うこと、他人のために自分のなにかとても大切なものを捧げること、は、一般にすごく尊いこととか思われているがそれぜんぜん違うわ―勘違いだわー残念だわ0000っていうのがまどマギである。
 
 まどマギがなぜそんなにオレみたいなおっさんをひきつけるかというとそれはひとえにほむらちゃんがあまりにも大変な役割をひきうけていることとあまりにもまどかちゃんが最後まで変わらないからである。
 
 変わらないのだと思っている。
 
 それはおそらくは悠木碧さんの髪型がずっと同じ美容室で同じように整えられていることと関連があると思う。
 
 なんにせよオレはテレビのやつ見てるときと映画のやつ見てるときでぜんぜん感想が違うことがわかった。
 藍ぽんがどのくらい実力者かよくわかった。
 
 長野グランドシネマズがまどマギを上映してくれて本当にありがとうと言いたい、来週は後篇を見にいきます。
 体調をととのえて。来週まで生き残れますように。
 
 ドロップキックのカレーくいたい。いつも前を通るだけ。