よる

コミューンは「反体制」だったんですねえ。
 
 まあでも自己完結できるならいいがそうでもないしねえ。
 
 WEBコミュニケーションというか、掲示板というか、横丁というか、界隈というか。高校と大学で言うと部室というか。なごみ場所というか。
 
 けっきょく一人でいるとおかしくなるが大勢の中で制度の中でうまく適切に泳いでいくこともできない。見ているが見られていない感じというのがSNSのもっともいいところで更に言えばツイッターである、TLを見ている、見ているだけだ。ブロックされていないかぎりは見ることができる。それはFineチューニングされている。長屋の住人どもの選択はオレが行ったものなのでひどく不快なやつは排除されている。
 
 それは別にコミュニケーションではないよね。双方向性があるようでない。ないんだよ。一方だからね。
 
 だからそんなんに依存するのは危険だって話も出てくるのはわかる。
 
 しかし現実社会はもっともっとハードで。
 
 コミューンとか部室とかのいいところはそこにいくと誰かがいるっていう感覚なのである、オレが学生だったときにオレがぼっちではなかったというのは奇跡だとは思うがでもそれでもぼっちでもあったと思うのでもある。
 
 シェアハウスが警戒されているのもいまのうちだ。名前を変えるだけでいけると思う。老人が皆で互いに助けあい社会の荒波を生き残るためのシェルターハウスとかね。
 じっさいにDVから逃げるという意味でのシャルターは存在するわけだし。
 
 それを老人に適用するというところの。
 
 
ココ最近まったくよく考えているのだが、属性がないと助けてもらえないもんかね、病人だ、老人だ、女性だ、こどもだ、障害者だ、精神障害だ、知的障害だ、発達障害だ、疾病だ、鬱だ、高次脳機能障害だ、パーソナリティ障害だ、だl。
 名前がついていないだけのものなのかもしれないが、
 実際にいま困った気分になっているときに、かけこみ寺にいったとて拒絶されるみたいな、それは名前がついていないからだ、みたいな。
 
 かけこみ寺ってのは昔の離婚調停関連のシェルターだったそうですが。三下り半。女のほうが立場が弱かったのでできた制度。