土曜

いやしかしね。(本日は01:30くらいから起きている)
在宅の現場で「リハビリ」
のサービスをうけているという状況から、「卒業」を、
することはなかなかに難しいという現実がある、どういう困難かというとそれは頭の中でそれをどうとらえているかである、
はじめから、サービス提供の最初から「これは期間限定のサービスです」と銘打っていくことはそれはそうすると徹底するとするならばできるだろう、しかし
「たとえ結果として期間の最後のときになってその人が最悪の状態であったりアクシデントがあったりしてもそれでも期間は限定です」というのだろうか?
 
先のことはわからないが、ともあれ。
 
在宅の現場であればそこは病院ではないので、自宅でしていることすることしていくことは「生活」である。LIFE。
 
LIFEには終わりがない。終わりがあるとすればそれは死だ。
 
で。
 
サービスをうけていることにはそれなりのニーズがあるからサービスがあるのである
 
介護保険における訪問介護サービスの「身体」「生活」の区分。
まあね。ADLとIADLの区分でもあるんだろうけども。
 
ざっくり言ってしまうとつまり在宅で「過ごせている」人は過ごせているのであるから自分でできることがあるんである。
過ごせなくなってしまっている人とは
・病院でなくては提供できない医療処置がなくては生きていけない
・排泄介助や清潔行為などが行われなくてはいけないのだが介護力不足または本人の動作困難またはその両方により困難があり結果として清潔が維持できず致命的である
・独居その他の理由により栄養が保持できない
・移動して自宅から受診等を行う必要があるが介護力の不足あるいは本人の移動能力の低下により移動することの困難があり介助を必要としている、介助のサービスが無い場合には受診が行われず身体生命の維持に危機を来すことが明らかである
 
というようなことだろうか。
 
「入院させてくれれば一時しのぎにでもなるのに」とは多くの老人が関係者がそういうのであるが所詮入院は一時しのぎでさえない。
 
まあなんだ。生命が危機にある中でもいろいろあるのに、その中で一部だけ「明確に医療の分担です」と言えるものだけが医療施設(=病院)でのケアに該当するとみなされる、実際には「在宅ではこれは無理だ」となってしまっているもののうち、医療的ケア必然性から外れているものは医療機関ではケアしてもらえない。しかし他の受け入れ施設が存在しない。存在しても定員が満ちており新たな受け入れ枠がない。ないから在宅で過ごすしかない。在宅で過ごすが、危機は危機のままである。ころぶ。おきられない。食事がプアだ。食事が栄養を満たしていない。嚥下の問題がある。ろくでもないものを食っている。消化がわるい。立ちあがれない。肥満だ。視力に障害がある。歯がない。咀嚼していない。消化不良だ。関節に炎症がある。胸椎腰椎に変形がある。疼痛。身うごきがとれない。片麻痺。既往。
 
金がない。移動するためにサービスを使いたいが金がない。
 
 生活保護。申請してそれがすぐに通るとは限らない。
 
 金があれば解決するのか。
 
 しかし結果として死ぬ。
 
 そこまでのプロセスが満足いくものでないと化けて出るのか。
 
 つまり「死なせかた」の問題。
 歴史的に多くのこれまでの死に方「そろそろ死ぬころだ」
年をとれば60くらいから死がそのへんにあってそりゃ死ぬときは死ぬし、
べつに若すぎるなんてことはない、60だし、還暦だし、そりゃそろそろいいだろうこの年にでもなればなんでも起こる、血管なのか心臓なのか脳なのか肝臓なのか大動脈解離なのかなんなのかしらないが人間の体というのは「期間限定」の生モノであって別に永遠の命ではない、いくら健康に気をつかってなんだかなんらかの健康法全部やってみたとて死ぬし死ぬ。かならず確率的に難聴になり視力障害になり呼吸器に破綻をきたし嚥下障害を発症する自然に発症するナチュラルにそうなる痰がからむ腐敗臭がする排泄後の処理がいいかげんになるそれが加齢だエイジングだあきらめろ。