けっきょく1月の2回目のバイト面接が電話不採用結果で
それは車で伊東に向かっている最中に電話がかかってきた25日(土)だった
わけですけど
そこが大きなひとつの転換点といいますか
それで25日はたくさん店主と話して
けっこうオレ的にははじめて自分から弱みをさらすというか
(はじめてかよ!)
自分から弱みをさらしにきました!と宣言してさらしにいったのははじめてですよ
ふつうそんなことしないじゃんねえあんまり
そこで他人様×2と話をして(他人と話をしないとあかんよね!)
そこでやっとなんかがなんかにスイッチはいったんだと
思うのよ
26は(25のことをエッセイにしようかな・・・)とか思いつつ大相撲をみてて
27はたぶん書くやつのつづきをやっていた(このあたりでこの小説における最終エピソード辺りを書いていたと思うよNPOがどうたら日記にかいてあるもの)
それで28になるのである(書き終わって そして3つめのバイト応募しているからね)
すごく集中的にたくさんのことが脳の中で処理され結果が出てまた別の処理が起きているんだよ
まあ基本は「生きていきたい!また店主のところに来月もあそびにいきたい!」だし
「この家族トラブル状態をどうにかしたい!」もあるねオレとしては
なんでも言語化がいいとは思わないが
それなりに自分で納得しないと行動もすっきりしないので言語化している
そういうことが)処理が加速するとトラブルの中の「これまでそこは見なかった場所」に目がいくようになるんだと思うわけよ
たぶんね
でもそれってやっぱり直接的に鹿島茂のあの本のあの箇所における「エマニュエル・トッドが友人(言語学者)から指摘を受けてそういわれればそれって一目りょうぜんじゃん!とばかりにトッドも自分で修正したんだけど」っていうエピソード
を読んだらオレもそれに(オレの問題のそのあたり)に気がついたってことなんじゃないの>?
他人様と話すのはもちろんすごく大事だったが
本よむのも他人様と話すのとおなじくらいの「外から」があるねえと
思う次第である
他人をとりいれる・・とりいれることのできる回路をひらくみたいな