よる

アレクシェーヴィチ「戦争は女の顔をしていない」

まだみてないが2回目の途中

解説の先生が紀貫之土佐日記」との共通点を語る

いっけんとっぴではあるが

貫之は子供を亡くしたところで

かなしみを

つづる

ことをしようと思ったが自分の普段の文書のかきかた

ではそれは表現できない

と思ったときにふと女子供のするかな文章を

書いてみたらどうだろうと思ってやってみたというんだが

つまりそれは何かというと

感情

とか心のこと

を書くときにはいわゆる「女文章」

日本でのことでは漢語をなるべくつかわないような

そういうかきかたが

より

表現ができるとされておる

「戦争は」でも

女性兵士たちは

戦争にいくまえに戦争のことを考えたくなくてハイヒールを買ったことや

銃に摘んだ花をくくりつけて帰ってきたことや

戦争中に同じく兵士だった男との間に恋愛が発生して

子供までできちゃったことなどを語る

それは大文字の戦史では語られないことだ

あとは生理とか怪我して血が流れたこととか

 

いまラジオ朗読の「痴人の愛」が5話おわって6話で

ナオミといっしょに鎌倉いったんだけどエスタブリッシュメントとの

格差にがっかりしてたけど

海で

およぎの練習するところで子供のように

ジタバタうごくナオミであった

谷崎の書く女(野生)の話ことばが

本当に当時の女性の教育のないほうの人が

そんな感じの話方だったのかなあ

とか

思っている

 

ゆう

文學界の10月号だけ買いにいったら

つい4冊になってしもうた

 

「死物語」(下)

まだやってんのか

撫子って書いてあるとついみたくなる

つづきかたがわからんけど

 

「孤独」という生き方

息子を亡くして山奥で暮らすみたいなこと

について本人(じじい)のことと取材したことを

書いてるだけなような気もするが

経験談は読んでみたい

いろんなパターンがあると思う

 

「批評の教室」

さえぼうこと北村紗衣先生の新書

ツイッタでは

まっとうであっても言うこと言うべきこと

批判すべきことはくまなく批判していると

それを読むのがだんだんつらくなり

ついミュートしたくなるけど

まだしてない

ひる

ひる

 

ううむ

 

栄養なあ

 

栄養

なあ

 

昼になったが空腹感はあるが

食事をしなくては

という気がいまいち

滾らないのである

なんでやろう

 

車中泊旅は

喰えるものを食うという感じで

でも満腹になると眠くなるし

けっこうセーブしてたかんじ

だったわ

 

いま体重どんくらいやろ

 

でも蛋白質は食べないとねえ

あさ3

あと

 

宇内さんが好きなんだけど(TBSアナ 横須賀出身 ミス慶応2013)

宇内さんが言う

「暇が耐えられない」「散歩ができない」

「ずっと情報を脳に注入していたい」

「わたしは散歩とかしながら思索して考えを

たかめるようなことはできない」というのが

シンプルにわかりやすい表現ですごく

なんか自分と自分の考えとのあいだに距離がない人なんだな

と思うのであった

 これは

つまりバンジージャンプ跳んでといわれたら即行動できる

という意味である

 

一方でオードリー若林のように「常に脳内で自分との対話をつづけている」

人もいるのであるこの場合は

自分と自分の考えとの間には距離があって

それはつねに「自分との対話」によって

「考えをめぐらしたり深めたりしながら思索している」ということ

なんだろうと思う

 

だから若林の場合には「なにも考えず脳をリフレッシュするためには

アイドルラジオをきく」というのである

アイドルになることはできないから

完全に別分野ともいえる

(でもトークではある)

 

宇内さんは「無意識であることを愛する」という睡眠LOVE

であるので

「だから起床したくない 皆は何をもって起床へのモチベとしているのか?」

というのである

たぶん宇内さんの中では理路整然で一貫しているのである

なかなか余人をもって理解しがたい論理ではあるが

これも論理である

 

つまりシンプルであって

意識がある=その時間帯はつねに情報が脳に行き来したり入ってくる

意識がない=無

 

この2つは完全にわかれているし

 

交通こそが宇内さんの意識の在り方の本質なのである

 

若林の場合は「一旦交通を滞留させて滞在しているその思索をこねたり

他の方向から検討したりさまざまな醸成のための時間が必要」なのだろうと

思う

 

それが自分との対話

 

対話できる人でなければ日記などはかけない

書くことは脳のなかみの実際を他の論理平面に出してくることだが

出してくるためには駅から駅へと運行しないといけない

 

宇内さんの場合には

駅が無いのである

たぶん

 

 

あさ2

HULUで元とろうとか考えるのはやめているが

はるちゃんの顔が好きで

あと

福岡県のロケ番組として

とても

単純に観光気分になれるので

観光は好きなんです

(でなければ2900㎞以上もドライブしないよ)

あさ

あさ

9月9日(重陽節句)木曜日

あさ

 

混乱している感はあるので

ちょっと整理します

 

今日の予定

・洗濯と乾燥 ・1130AM歯医者(sumi)

 

これだけはマスト

あとは任意

・つめきり(sumi)) ・車の中の整理整頓掃除(雨がやんだら)

やむよ

 

・録画みる(モネの先週分みる そして消す)

(土曜の向上委員会)

不滅のあなたへの最終回)

9月中に終わらせられそうなものは終わらせないといけない

 

・Fさんにお礼メール(sumi)

 

なんでんかんでんどうにも過剰にサービスしてくれる人である

ことは分かっているがこっちはお返しできないけど

それを負債だとは思わないようにしているなぜなら

オレがFさんの顔がみたいねえと思って遠くへ行く

こと自体があるいみではギフトであると思っているから

 

・つめきり(sumi)

 

・ひげそり(sumi)

 

・サウナはいって車中泊の連続の滓をながしきりたい

 

栄養の成分とかも気になる

生野菜的なビタミン繊維くわないと人間生きていけないような

気がしている

さもなくば便秘

あるいは飢餓のリスク

栄養成分

よる

つかれすぎなのか

おおきいゴキブリが元気そうで困ることがあたまに残ったからか

ねつけないので

 

アトロクの放課後ポッドキャスト(スポティファイ限定)で

いろいろきいていたが

 

三宅(隆太)監督のホラー講義で

宇多丸氏との会話で

いろいろ素朴な疑問にこたえている

 

それをききながら

美学

(分析美学)についてとか批評について考えていたが

このたびの旅ではやっと

ノエル・キャロルを読むのはじめることができてよかったが

あっち(分析美学基本論集)のほうの

ケンダル・ウォルトンのほうは未だちゃんと読みはじめてさえ

いないのだが

「なぜ”こわがる”のか」という話で

三宅監督はホラーのことを「絶対安全な環境で安心して怖がることができる」

と言っていた

それがそれのことなんじゃないかなあ

 

つまりまたこれも三宅氏の「怖がらせるものとエロいものは

どのメディアでも最初からあった」(表現はオレの記憶による)

という話である

 

たしかに

 

歌舞伎だって結局はエロとグロである(スキャンダルと色恋と自殺)

 

なんだろう

 

宇多丸氏が「映画は自分では体験できないことをかわりに体験させてくれる装置」というのもそうだと思うんだ

 

それを思った

 

あとさっきBSプレミアムみてたら

四国の祖谷とかではないけど山中の老人が

単身だけど自給自足しているとナレーションが

言っていて

かぼちゃを切って干す作業とか

にわとりの産んだ卵をとりにいく作業とか

うつっていた

まあでもそういう人は

地域で生まれて年をとるので

助けあいも完全だからねえ