ぬこの家いく。仕事。ぬこは、今日は布団の上でうごかず、オレがどいてくれとばかりに手を出すとそれにじゃれてくるので爪と歯があたってちょっと痛かったがむこうも手加減はしてるのだ。
 あと今日の会社の車は89000Kmオーバーのアルトだったが、もうブレーキのききがわるいのなんのってこわい。全然とまらねえ。急ブレーキなどもってのほかだ。
 あした雨だっけ。困ったなあ。まあいいんだけど困ったね。
 雪じゃないだけマシか。
 さて朝のうちに開いておいたなんとかの「とらドラ!」10話でもみるか。
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みている。
昨日のつづきをちょっと考える。
どうして、リアルでない(ように感じる)人物像が北村とみのりんなのか・・
それはひょっとして北村もみのりんも、「大河の想い人としての北村」「りゅーじの想い人としてのみのりん」だからかもしれない。あるところから見たある人物はその一面しか見えない。あたりまえだ。複数の視点から見てはじめてその人物は「陰影・立体感」を獲得する。
 そのために三人称があるんだろうなあ。
 しかし物語世界の中の北村やみのりんは、あくまで想う人から見た像しか提示されていないのだ。大河やりゅーじはその全方位からみられている存在なのに(視聴者から)。そりゃわからないのは無理もないわよ。
 つまりアニメ「とらドラ!」は、三人称の群像劇ではない、と言いたいのかオレは。
 まあそもそも人称という分類をアニメにとりいれるのはムリがある。アニメには、絵があり音があり、その絵と音でさえずらすことができ、絵もまた存在しなかった現実についての絵をいれることもできるし時間の後先をまぜこぜにすることもできる。なんでもできる、だいたいのことを。
 それでもアニメとしてのとらドラ!は、大河とりゅーじだけが「一人でいるシーン」を描く特権を使っている。ように思う。たまにあみちゃんが一人でいるシーンもあったような気がするがそれは重力を無視して上をむくスカートの裾だったりするだけのことだ(面白かった!エセ科学って言ってたサイトの人!)。
 一人で、なにかを、想う、というシーンがそこにあるのは、「三人称」であると言っていいのではないか。神視点だし。
 しかし北村やみのりんが出てくるシーンはある意味、大河から見た北村という「あたしの見てる北村くん」一人称、いやーんはずかしくて見ていらんない!顔をそむけたら、そこで北村の出番は終わり。
 まーそういうことから外れたようなものがこの後出てきてくれるといいのだけれど。