The よる

夜である。豪栄道鶴竜を破った時点でもうわるい結果しか見えなかったので寝てしまった。そして2200ごろ起きたが、なにもする気がしないので
伊集院のラジオ(の録音)をかけてごろごろしていた。
 
 知り合いではない人だがブログを書いている人なのでそれを読む
 と、鼻持ちならないことを書いている。
 
 鼻持ちならないという表現がオレに根ついたのは、はみだしっ子を読んでからだ。
 
 もう何年経ったのかわからないがいまだにはみだしっ子の内容は全部ものすごい濃さでオレの中に巣くっていて、記憶の反芻がそれぞれ新鮮な経験としてオレに刻まれているので、あきれるしかない、その強さ強靭さに。
 
 オレがはみだしっ子でいちばん最近にピンポイントで思っていることは、
 フーちゃんの家から去っていくアンジー(ジャックのところに養子にいくとほぼ決めたくらいのあたり)が列車に乗って去っていくところである、夕陽がまぶしすぎてハレーションであたりはぼやけている。
 この章のタイトルが「もうなにも・・・」である。世界の終わり。Part16.
 
 ぜんぜん関係ないのかもしれないが、山本直樹自選作品集3巻セットを購入して舐めるように読んでの感想。もちろんエロマンガである(褒めている)のだが、これらの作品たちをまとめて集めているのでそれらに共通するかもしれない傾向を集めてしまうのは読者の常である。
 共通する傾向、それは、田舎も都会も問わず、なにか、「置いていかれた風景」があることである。つまりそこに放置されたのだ。ふわっと。
 
 そもそもがそこに住んでいるわけではなく、ふらっと帰ってきたり、あるいは住んでいるけれどとくにまわりとつながりがあるわけではなかったり、
 
 または唐突な訪問者だったり、流浪の旅をつづけるものであったり、
 
 まとめてしまうと根が生えない。
 風であおられてどこかに行ってしまう。
 
 普通に考えると生きていて生活するためには根が生えないとやってけないものである。養分をすうだけではなく、雨風に飛ばされないように、地域における人間社会に容認されるように、そのために。
 
 しかし山本作品のやつらはみんなおそろしく宙に浮いている。移動している。
 オレが一番好きなのは演歌の新星である。浮いている。その海岸はブラジルのようだ。南米などのラティーノの世界は他殺的だという。まさに「恐怖の大王」も射殺されるのである。
 
 そもそも「鼻持ちならない」話だった。経管栄養の話を書いてたのだ。その人が、
 いくら技術が発達して、死にそうな人を生かしておくのができたとしても幸せかどうかとはまた全然別の話である。
 
 技術が悪である。こともある。
 
 オレも最近とくに思うのはぜんぜんcureしてないじゃんということである。
careならしている。いくらでもしている。
 しかしお金が発生するのはcureに関してである。
 
 どうもならんダメ病気(病気じゃない病気)なんか、ぜんぜん、なんの金にもならん。
 
 健康状態の維持管理を医療保険で賄うのなんて間違っている。
 
 死にそうになったら家に帰って家で死ねというのがいまの方針である。延命とかどうでもいい。そもそも延命というのがおかしい。死ぬとき死ぬべきときに死ぬのが正解だ。無駄年金もつかわない。
 
 右肩上がりを前提にしてつくられたすべての昭和の制度を解体しないかぎりまだまだずっとおそろしい悪循環がつづく、

 
 鼻持ちならないの話だった。フランクファーターである。この世でもっとも憎むべき鼻持ちならない男。憎悪を燃やすべき男。
 のうのうと生きている男。
 
 まとまらないのは分かっているが思いつきなので書かないとしんでしまう。