くるしくも一日が終了した。
くるしかった。なにもかもが変化の最中である。へんかのもなか。
変化を続ける、安定しない。きづかれ。まいあさふあんのきょくだいを感じ、
それをこなしてまた次の日はあたらしいきぐにさいなまされるのである。
なんかあれだむげんじごくというか、
さいのめがわらというか、
はたらくことがそんなにえらいのか、
えらくなくていいしべつにそんならいますぐここでいきたえてもいいがそうもならない分野であり、
極論を言うならなんもならんなにである。
人間が人間とのかかわりを求めているというのは本当なのだろうか。
ほろびよこのせかい。
順番に冷蔵庫の中身を食っていくだけでさえ大変だというのに。晩酌どころではない。酒を飲むのは憂さがあるからで、憂さは消えない。
せっかく人間にうまれたというのに。
どんな世界も理想たりえない。苦しみが最大にあふれているところこそが最も優れた新陳代謝の現場かもしれない、借金やニートの子供に悩まされていつまでも労働しなくてはいけない親という立場こそがじつは認知面での高齢化にもかかわらずいい認知を保って隣人との関係性を保ちよいメンタルが老齢になってもつづいて役割からくる使命感が背をまっすぐに保たせるのである。
負荷が重力下での骨の長軸を長くのばすのである。
今日のラジオ日記。水曜。たまむすびは大吉先生とたまちゃん。足つぼを圧すというやつがきた。テレビでショー的にやってるアレである、いたいいたい。大騒ぎ。場面としてハデでわかりやすい。
しかし。
本来は「リンパの流れの滞りを解消することをめざした」ことである。
本来は。
ゆっくり、じっくり、時間をかけて、いろんな部位をやるのである。
本来のもともとの人類がはだしで歩いていたことを考えれば、多少の足底の圧に耐えられないわけはないという理屈はわかる。靴を履くようになって足底の感受性も低下したのである。
しかしテレビでショーとして扱われるのがかえってその真剣な志を疎外しているような気がしてならない。テレビがわるい。みなテレビがわるい。
テレビなるものは「動画配信機械」であり「一方的に垂れ流す」のものである、
お金が儲からないならやめればいいのにね。
さてここから重大な話だ。
aiko
さんの話だ。
いまオレのテレビでは録画したSONGS(NHK)のaiko さんの回(デビュー16年 素顔のaiko)が流れている。
オレはaikoさんのアルバムをコンプリートしている人間である。
そのうえできいてほしい。
はじめは菊地成孔さんがaikoにぞっこんだと告白したところからだ。ふん。ブルーノート旋律。血肉になっている。そうか。
そして。
それからというか、前々からというか、
オレはいつもaikoのサウンドをきいているし、最新アルバムも聴いてその中でもっともオレの好きな曲は「大切な人」だな。と決めて、毎日通勤の車で聴いて、聴いて効いて、
血肉になっている。
そんなaikoさんが山里のラジオに出るとなれば聴いて録音して)まあいつも不毛は録音してるけど)そしてリピート再生している。
aikoさんという中年女子のリアルな生と性がそこにあふれ出ているのである。
そして今度はcakesでaikoさんを取り上げる輩が。
https://cakes.mu/posts/6169
「aikoの魅力が分からないんです」
”ワダアキ考 〜テレビの中のわだかまり〜 ”
武田砂鉄様
cakes
うううむん。
aiko さんの周辺にたまたまいてしまったような人間は会うことを避ける、そりゃ避けるだろ、実存が崩壊するからね。好きってそういうことなんじゃないの。
オレは実際のaikoさんに会うことなどぜったいありえないと安心している素人で俗人小市民なので安心して好きな気持ちを吐露できる。
まあなんでもいいです。ずっと曲をききつづけてきたのでもう血肉になってしまったので分離ができません。
なんでもいいので今後もいけるところまで活動をつづけてほしいです、あとaikoファンは皆、論理ベースで他人に対してその魅力について語る活動がどうにもストップしてしまいます、つまり酩酊です。酔うあまりに論理のワードを活用して魅力を表現することができないのである。
好きだけどうまくいえない。
それで当たり前なのだが現世はそんな保釈を許さない。
きびしい世の中だ。
そんな世の中は滅びてしまえ。