ひる



ごぜん、牧場と桜を見にいってきた。けっこう遠い。駐車場などなく、牧場の中を通る細い道の路肩にとめるしかない。そういうもので。
 
まあこれまでのオレがそうなら今後のオレもそうであろう。40とうん年かけて形成されてきた習慣と人間関係が今後も革命的にひっくりかえることなどそうそう無い。
そしてオレの成っている部分と、現状の仕事で求められている部分との間に齟齬があるのは、それは当然で、齟齬は何から生まれているかというと、現状の仕事で求められている部分というのが
・自発的な意欲を元にした活動の拡大
・地域の資源となること
・専門性を発揮できる人材となること
・クリニカルリーズニングにもとづくアプローチ
等、である、からである。
 
軋みが苦しみとなっているならばその職を離れるしかない。あるいは折り合いのつけかたを学ぶ。
折り合いというが、これがまたきわめて日本語の中のあいまいに表現できる部分であって、
「部分的にはオレが変化すること」とでもいうのか。
 
しかしどっちにしろオレが変化するというのならばそれはオレが変化することそれ自体に他ならず、
部分的、なんて留保をつけるつけないは関係なくなってしまう。オレが変化するしかないということになる。環境や問題設定そのものはおそらく頑としてそこに存在して、変化しようがない。
 
つまりオレが変わるか、あるいはオレが去るか、なのだが。
 
いわゆる「100か0か思考」というのが、あんまりよろしくない思考であることは知られている。
白黒オンリー思考とでもいうかんじの。
 つまりその間には中間がある。ない、と決めつけるのは認知の歪みだ。と。
 
 そうだのう。