ドライブ音楽

・YOASOBI

しずおかいきかえりドライブでYOASOBIの曲かけてたんだけど

これだけ流行にのればオレでもよくきくし

なんかせつない気持ちにもなる

「水星の魔女」の曲や「物語シリーズ オフ&モンスターシーズン」の曲など

毎週きいてた曲もあるし

なんちゅうかねいまになって「小説を歌に」というコンセプトが

よくわかる

わかるもんねコトバが

やっぱ語り手の声が重要だと思うのよ

ikuraちゃんの声だって唯一無二じゃんね誰でもそうだけど

あのちゃんの声だってそうだけど誰も本当のところおなじ声は出せない

それこそオレが50過ぎてもチャートの曲が好きだし新しいのも

きける脳をたもっていられるのはいいことだと思うがいいことだから

いいことを追いかけたいと思って行動している面もあるので

それはそれです

 

そして

・「つらい状態の人」

ドライブしつつ考えていたが「行動だけで コトバで説明しなくても

その人がつらいんだとわかる」映画の話でそれはもちろん

ナミビアの砂漠におけるカナちゃんがつらい

暴力ふるうしかコミュニケーション手段がわからなくなっているのがつらい

本人もそんなことしたくないのがわかるのがつらい

 

「あんのこと」を思いだすのだがたしかにあんのことで

あん

さんは「つらいだろうなという状況」にいることが説明~画面にうつされる様子があり

薬物と売春

なのだがそれをするようになったのは他人からの影響と強制であって

本質として「それをしたいからそれをした」わけではない

ように見えるの

そして「それをやめたい」「でもやめるのが苦しい」のかといったら

やめるのが苦しいのは見えないの

みえない 

薬物中毒だったら苦しいと思うんだけど

依存があるからさあ

でも依存とかのときの絶つくるしみがみえなかったの

 

心情として「人から優しくされるなんてことはなかった」のが

刑事から仕事紹介されたりヨガさそわれたり介護の仕事できたのは

うれしかったんだろうはわかるの(表情で)

 

だから今になってなんかわからなくなってしまったのだよ

あの映画において監督がつくった話は「状況をつくってそこにあんを

投入した」のではないかって思えてきて

 

ナミビア

においてはそこにはじめからカナちゃんがいてカナちゃんは

状況なんかにかかわらず行動して

行動のはしはしからあとになって観客は状況があったのではないかと

類推するようになるの

そして

行動そのものをみていてつらいだろうなと思えるの

 

あん が母親から売春強制されるシーンのあとにもう売春おわってカネをもってかえってくるシーンがあるんだけど

それは理屈でかんがえたらそんなのやりたくないってシーンだと思うんだけど

そこになんか葛藤がみえなかったの

 

カナちゃんの暴力はちょくせつ人間に対する暴力でそれは

他人(男2)に暴力しているんだけど

こころが悲鳴をあげているのもわかるの(感じるのだ)

 

ということは「あんのこと」では

「抑制」が演技の方針になっていたという

ことなのかしら?

つらいなりにそれを隠して無表情でやりすごすような生活(が さいごに崩壊する)

という流れなのかしら

 

かんじとれないのは観客であるオレがなんか感受性がたりないのかしら?

 

(ここから20241101後記)

というか)(またドライブ今日もしながら考えていた)

そもそもが

映画でも実生活でもわれわれは目にみえないものを

「みえないからわかるわけない」と

「みえないけどそれは他の方法でわかることとされている」と

両方の事実(感じ方)をつかいわけているのである

 

「気持ち」は見えないからわかるわけないと言ってもいい(こういうときには文脈として「だから口で言わないとわかりません」みたいのが付け加わる)

 

見えないけど気持ちは行動や表情、あせ、しぐさ、物のもちかた、あるきかた、手のフリ、口調、声の大きさや高さ、視線などのすべて外形で現れるのである

)(だから演劇や映画における「演技」が成立する)

というのもあるね

 

ここで登場するのが「他人のことばをことばの通りにうけとる人」で

こういう人には皮肉が通じないといわれている

「あ|~ら 素晴らしい出来ですこと~=」みたいないいかたで

なにかを評定しているときに

「これはおそらく言葉通りに褒めてるのではないんだな~」とうすうす感じることができるのが”一般の”人であるとされ

 

できない人は「ほめてもらってありがとう!」とか返すわけである

 

これがどっちでもべつにこれ正しい正しくないの話じゃないのである

 

われわれは「視たものきいたもの感じたこと」を使って「文脈」context

を読んでいる

それは生存を有利にして生き延びるチャンスと利益をなるべく大きくしたい

と思って人間関係よくしようと思って波風をたてないようにして

獰猛なライオン(比喩・暗喩)を怒らせないようにそこをモニターウオッチしながら真剣に確実に意見を出すとか話を交渉を行うとかしているのである

 

あん

あんのこと における あん は

なるべく表情に出さないように口調がかわらないように

していたのだろうか?抑制?

 

ナミビアのカナちゃんの行動様式は解離症状のそれだという(精神科医によればだけどね)

 

われわれはその行動を見ただけで

「これは怒りのそのままの反映した行動だ」

「これは怒りのように見えるが怒る以外になにもできないために本人もしかたなく怒りで表現している行動だ(例・ねむくなってきた赤子がぐずって怒る)」

「これはわざと怒りもないのに怒ってみせている行動だ」

それぞれを成人がやっているときに我々は観察だけで区分ができるだろうか?

演技によって怒りを隠している人はいないだろうか?

 

暴力は怒りの表現とされているがそれ以外の可能性もある

 

あるだろうか