さて。
  そのときオレは大学を出て初めて就職した会社を半年で離職してバイトを探していた。世の中は「バブル終了」のことをはっきりとは未だ認識しておらず、しかしちょっと傾いていることは傾いている?ようなところだった。
 思うにその1994年(平成6年)の晩秋というのは景色を鮮やかに覚えているのだが、とくに記憶に濃い風景は、池袋の日本海なんとかってゆう居酒屋で大学の同級生(サークルの)と飲んでてオレが会社やめたってゆったらすごいドン引きされたことと、あとは、新宿コマに初出勤に行ったときに街路樹の枯葉が風にぷわぷわ舞っていたことだ。
 いま思えば、なぜ同級生たちがドン引きしたのかすごくわかる。し、また、その当時のオレになにかアドバイスしても無駄ということもわかっていたので何も言わなかったのだろう。
 が、普通に考えれば、考えなしのダメ選択である。
 当時の同級生は平成6年3月卒業の大学生として金融やら保険やらメーカーやらの「かっちりした堅い職業」についた。就職に成功した。そのくらいの成功は、おそらくは、普通にやっていれば獲得できるくらいの景気状況があったのである、当時の日本に。
 いま(2011正月)思えば奇跡のようなものだ。
 だが、「新入社員は新卒!」という「きまり」が昔も今もあるみたいな日本社会のルールをしっかり把握していた同級生たちはちゃんと道を踏み外さないでがんばって就職した。そうだ。彼らは頑張っていたのだ。決してその当時の好景気にうまく乗っただけではない。
 いっぽう、オレはというと、当初は大学院というものにいきたくていくつか受験してみたものの、そもそもの「研究者としての人生を構築する」ことについてぜんぜん知識も考えも不足していて、おまけに学問上の師匠もいなくて、なにが研究したいテーマなのかもはっきりせず、社会科学系の大学院に受かるための受験勉強も足りなかった。
 ので、途中であきらめて就職活動というものをしてみたところで、同級生たちのようなちゃんとした会社に就職がかなうはずも無かったのである。
 ちゃんとした会社って、なんだよ。
 
 この「ちゃんとした、って、何だよ(ちょっと怒)」みたいな言葉がオレの人格を象徴している。
 オレみたいな人間はそこに反発するのである。
 しかしまあ、ひろく言えばエスタブリッシュメントとか格式とか社会的信用とかそういう意味である。
 
 オレは結局、サークルの部室においてあったチラシをもとに、小さい楽器修理販売会社に「修理工見習」として就職するのだった。(これは C )

 
 
しかしCの話はCにゆずろう。
 ここではDの話である。
 さてCを「ヤだから」という理由で辞めたのは、バカそのものでありますけど、しかし、「ヤだから」という理由自体はまっとう正当だったと今でも思う。
 そのヤなことに耐えることで得られる価値みたいなものがあったんだろうけど、それってゆうのは、おそらくは「ちゃんとした会社ならば」という留保がつくんである。
 ああいう小さい会社でまあベンチャーだ、ベンチャーで「長期性に賭ける」のもリスク多い。
 そもそもがリスク高いロードに踏み込んでいたのである。
 
 そこで父親にものすごく叱責され怒声をあびた。
 
 その父親もいまは老いたので、まあ、ちゃんとものすごく見下げ果てられたというのがあっても、まあ良かったのかもなあと今ではおもう。ビビッドな経験だった。
 
 ま、父親は「ちゃんとした会社」に就職してそこで「生き抜いた」ことが誇りになる、ということを早い時期からわかっていた人間で、しかしその当時は「ちゃんとした」人間であることについては、それ以外の選択肢が存在しなかったのである。
 
 オレの考えとしては「ちゃんとした会社以外にも、ちゃんとした人間であるための方法は無数に存在する」と思っている、いまでは。
 そのことは20110108の日記にちょっと書いた。コミットメント。
 
 さて。
 父親は怒声を浴びせたあとは、もう勝手にしろと言って浜松市に帰っていった。
 もともとわかっていたがここからはバイト探しでアンである。
 いや。
 バイト探しである。
 バイトの基準は何もなかったが、オレはたぶん、なにか変わったものを探していたのだろう。
 
 オレは新宿コマ劇場を皮切りに、あちこちの都内の東宝系の劇場で小道具係として働くこととなった。いや東宝舞台の社員でもバイトでもない。その下請け会社のさらにバイトである。
 それでも時代のせいでバイト自給はわるくなかった。約2年間働いたが、そこそこ食っていけた。
 
 しかし当時はまだ東京宝塚劇場も建て替え前であり、つまり、そういう「舞台」の世界は、「前近代」の色濃く生き残る世界だったのである。
 
 などと適当な言葉を使ってみたが、
 もうちょっとオレの実感に寄り添った言葉にすべきだ。
 そりゃそうだ。
 
 かんたんに言うと、罵声で教えるとか、声がでかいとか、埃まみれとか、ダニとか、借金とか、仕事が終われば職場でいっぱい引っかけて帰るのがあたりまえという、そういうところである。
 

まあそこではじめてオレは「職場の若い人たちで飲み」みたいな環境を知るのであった。
 というのはCの会社は吉祥寺オフィスに全部で3人でオレと所長的な方とおばさんの3人だったからなあ。
 で、このDであるがここではなにしろ昔の昭和の現場みたいな感覚なので、手作りの休憩所があって、なにしろ場所は舞台であるから木材とかカーペットのきれはしとかいっぱいあるのでそうやって昔の先輩が舞台の上手袖に小道具置き場兼休憩所をつくってあって、木のベンチとテーブルでベンチにはカーペットで座面貼ってあるのである。室内内装である。
 で、小道具なんて舞台転換以外は暇なので、ここで寛いでいていいし、転換ではきっかけで腰を上げていくだけである。ここで読書したりタバコすったりお茶のんだりしてるのである。
 で、仕事おわればそこで焼酎をひっかけてから帰るのであるほぼ毎日。焼酎は一升瓶で買ってきておいておく。金は出し合う。つまり即席居酒屋である。毎日居酒屋にいくと金かかるけどこの方式ならOKである。
 まあいただきもののビールとかもためてあった。芸能なので、役者さんが裏方さんどうぞといってビールなどを差し入れてくれるのである。
 でも毎日飲んでるとビールなんてすぐなくなっちゃうけど。
 そういうところで過ごしているとまあいろいろ喋ることがあるもんだなあと思ってはいたがオレはそもそも2年くらいで出ていくつもりで入ってきていたので(これを一生やるとは思っていなかった)、あまりそこに没入することはなく、その姿勢を先輩に糾弾もされもしたが、まあそこそこで過ごして、2年たったら東南アジアに長い旅行にでかけるのであった。それはそれとして。

 ちょっと面白いのは、その舞台裏の仕掛けなどの、薄暗い感じと、あと、木造のセットなど、木の感じ、そして大がかりな仕掛け、上下の空間のスケール、どれをとっても「千と千尋」の世界にすごく似ているのである。
 
 似ているというのはあまり的確な表現ではない。
 湯屋の構造は「大旅館」「娼館」「歌舞伎座」「銭湯」のおそらくはいろいろ共通する大きい日本建築集合ミクスチャーである。
 昔からの大きい建物はだいたい同じである。
 そしてまた歌舞伎座に代表されるような「歌舞伎小屋」の仕掛け、まわり舞台、その下でささえる構造、そして回転しながら内外別にせり上がりをつくることができるのがコマであるが、えっと。