イヤハヤナントモ

「イヤハヤ南友」
 
 さて続きである。人間の要素について。式につづいて披露宴なのだがこの式場ではかたくなに「パーティー」と称していた。披露宴でいいのにねえ。
 全部アリって感じの披露宴だった。
 
 細部について語らないといけない。プロ司会者。たしかに段取りその他のもっていきかたはプロであった。しかしその語り口。
 口調。音声。トーン。言葉づかい。 どれをとってみても「日本中でこのような披露宴タイプでしかおめにかかれない抑揚」であった。
 丁寧をつきつめた結果としての、独特の「結婚式披露宴語」ができあがったのである。
 
 それは日本の中でもかなり限定された業界用語に近い運用のされかたである。
 どこからもクレームのこないように、アナウンスでありかつ丁寧でありかつ式事であり。
 
 たとえば「神への伝言である祝詞」がどうしてああいう日常から遠く遠く離れたおかしな抑揚の言い回しになったのか、それは知らないけどとにかく特殊な用途の音声言語は特殊な進化を遂げる運命にある、結婚式披露宴の司会もまた然り。
 
 ふわんふわんしてむわんむわんしている。
 ときにぶわんぶわんしたりぶえんぶえんしたりする。
 
 まあ司会の面白さについてはこのくらいにして、あとは「果てしない蕩尽と無意味消費、人的エネルギーを祝祭的にぱっと散らす」のこと。
 だいたいもう現代人には結婚式くらいしか「アホの祭り」が残っていないのである。葬式は辛気臭いものとしてただすぎゆくものになり、普通の毎年の祭りはエネルギーの発露としてクレイジーさに欠ける。
 
 なんか日本人が子孫繁栄という幻想を信じるための儀式としては結婚式と披露宴は格別によく機能しておりたぶん最後の砦なのである。
 
 それがなくなると「アナーキー」すべての価値が紊乱状態としてなにもしんじられないみたいな。
 
 なんちゅうか集団はこわいし集団に対して「誓いをたてる」式の式なんてオレはこわいね。とてもそんなことしたくない。未来に、思っていたことが180度かわることなんてまったく有り得る。誓いだって。できません。あらら。
 
 それはそれとして着飾った若い娘をたくさん見たがみんな野蛮だねえ、十分に。エネルギーが高い。行き場がないのもよくわかる。無意味に燃やしてほしい。
 オッサンの感想は下品でかつ鼻もちならないものになっており、全方位から糾弾されるに値する。まあそのまえに無視されるがよし。