昼寝^起きる^風呂^電車^ライブ。
長野にて寺久保エレナ・カルテット。こんなジャズのカルテットを1m以内で聴くとはねえ。すごいパワーとエナジー。面白い。眠気も吹っ飛ぶ。
しかし帰りの電車は眠かった。
しかたないので眠気覚ましに増田を読んでいた。
http://anond.hatelabo.jp/20110716214916
■婚活を終えた喪女からの伝言
いいねえ勝ちだと自分を感じられるというのは。
いやこれはオレの皮肉ではなく心からそう言っている。いろいろあるが正直に書くのがいいと思うのでオレも正直に書くよ。16日は同窓会(同期会)、1718で伊豆にいて、様々な人がいたがだいたい幸せそうにしてる人だった、幸福。
幸福には定義はないがだいたい愛し愛されて生きてるような人が幸福であるようにみえるし、そういう人は一人ではない。
いまの日本語は多義的な書き方だったのでもっと限定される文にする。
オレからみて幸福であるように見える人は、パートナーとしての愛し愛される相互関係の人間関係の一方であるような人間だ。
あれ、こんどは厳密すぎて身も蓋もないよ!オレから見てだけど。
というのはこれでいうとオレは幸せではないからだ。
オレはなんとかして幸福の多義性みたいなものを実践したいなあと考えている。
しかしみているとなんとも。
なんともとしかいいようがない。まあもし本当に多義的であるとすればたぶんそれは価値紊乱みたいなもんであんまり多義的な世界では人間は生きられないのである。何をしたらいいかとか何を信じたらいいかとかわからなくなるからだ。そんなことをいちいちはじめから考えて生きてるやつはいない。そのへんにころがっているモノをはじめに手につかんだモノを信じたり実践したりしてるのだ(例・親がそうしていたように)
しかし実際にはオレは、べつに不幸にして幸福になれずとも、甘んじて不幸でいいということにするみたいな解決法をとったりするだろう。不幸がつらいかどうかは不幸による。つらくない普通の不幸だってあるはずだ。
あるといいけど。
要は集団のそばにいると我が身が不幸?とか考え始めるというムダきっかけの構造。ひきこもりならばそんなことは考えません。
さっきの増田の人のダンナって偉い人だ。がんばる人さんだ。尊敬する。まあ偉い人だからこそうまくいったんだろうな。増田本人については多分分析的にすぎる人なのだろう。よくその分析の罠を逃れてダンナを好きになれたものだ。これも尊敬する。