ジムいって心拍数上げて、ストレッチして風呂入って帰ってきた。
もちろん、「この人はゴミだな」と思われてるような場合の患者としての扱われ方は我慢ならんだろう。
しかし実際の「対面対応」と、ものごとの問題点を考える上での思考は、全然別のものだ。オレは自分自身の職業場面のことではなく、思考としてはマクロで考えているのである。それはオレ自身の当事者問題を棚上げしたものである。
ほんとに医療というのはへんなものでほとんど呪い(まじない)である。
沖縄にはユタという人がいるのだという。
ユタは何をするのか。
ウィキペディアより。
「琉球の信仰において、琉球王国が制定したシャーマンであるノロ(祝女)やツカサ(司)が公的な神事、祭事を司るのに対し、ユタは市井で生活し、一般人を相手に霊的アドバイスを行うことを生業とする、在野のシャーマン・巫(かんなぎ)である。」
へ。え。
信じることで半分は救われるのだという。
もちろんそうだろう。
西洋医療の場合においても医者が信用できそうだというだけで治癒率は格段に上昇するであろう。いわゆる転移である。
オレはなんとなくPTになってしまったのだがなってみるとコメディカルとはいえこれもまた診断つまり見立て(診たて)の職業であることを思う。
実際、医師の「指示」なんてあきらかにどうでもいいのである。
問題点を明確にしたうえでの何をして何をめざすかは現場のセラピストの判断であり裁量である。
というのは病院によっては医師の積極的な「リハへの関わり」が無い場合があるからだ。回復期や急性期でのリハに理解のある医師、が、いないような、中小の慢性期病院なんてそんなもんだ。吹き溜まりと言ったがそのとおりだ。
「回復」とか「機能の向上」とか、ありえない。いや、ありえなくもないのだが、とにかく少ない。
老年においての「何かが取り戻される」ことの、あまりにも少なさ、現場ではそれが当たり前である。
できることをするしかない。
と思うのである。
そこで見立てである。何ができるか、何ができそうか。できそうなことを現実化するためには何が必要か。ステップの見積もり。
それができてなんになるのか。
意味あるのか。
身体の姿勢を見て考える。レベル的に動けるか、動ける範囲はどのくらいか。だとしたら日常生活はどのようなスタイルになるのか。どのくらいの介助が必要なのか。
健康で文化的なんて、ありえない。
不健康にして、非文化的である。
それでも寝たきりの完全ベッドオンリー生活と、たまには車椅子のって移動することとの間に、いったいどのくらいの差異があるのか。
わからないし。