よる 「姉の結婚」6巻感想 

   以下一部ネタバレを含む(いろいろ追記あり
・女性向け漫画をオッサンが読むときにどういうスタンスで?
いうまでもなく女性向けである。
しかしまあ別にオッサンが読んだらいかんわけではない。小学生のときから姉の読むぶ〜けを横から読んで以来の少女漫画読みではある。ぶ〜けってのがいいね。ぶ厚くてね。まあそれはそれとして。
 本来の少女漫画女性向けマンガは女性が主人公でありそこに感情移入してナンボである。夢。ああアタシもこんなふうにいい男とめぐりあいたいわ。みたいな。古いか。オッサンですから。
 で。オレは誰に感情移入すればいいの?
 真木くん?それは無理ですね。彼は「まちいちばんのイイ男」であるから。まあ6巻ではそれを崩しているわけですが。
 でも昔は白デブだったんですよね。
 
 主人公たるヨリちゃんに感情移入することはできない。こちとら40オーバーのオッサンであり、彼女と共通することは「結婚していない」ことだけだ。それだけ。
 ヨリちゃんはちょっとオーバースペックなのである。美人巨乳、頭脳明晰、いいよる男の数知れず。そう書くと俗であるがそのようにあるので仕方がない。
 彼女の問題は彼女が本当にほしいものの形や色や詳細がうまく自分でみとめられないことである。
 
 簡単にまとめてしまうと
1、主人公は形式としての結婚というものをかなり重要視している
2、かつ、その相手とは相思相愛で強く結ばれないといけない
 
って完全主義すぎるでしょう。そうですね。最近の話題で言うと
岡田育さんの「嫁に行くつもりじゃなかった」ですかね。マイナビ
http://news.mynavi.jp/series/shinkon/menu.html
 
完全主義の人は結婚なんかできませんわ。
 
あと、いま読みはじめた本としては江戸の視線というか個人がきわだつ近代の論理を軽くひっぺがしたような、
「落語の国からのぞいてみれば」堀井憲一郎
結婚が愛とか恋で決まるなんてそんなんアホのきわみ、個人なんてものはそもそも軽んじられてあたりまえで社会が先にある、
みたいな気分。
 
 いろいろいまのオレの読書とか関心とかがまざっているので整理しないといけない。
 
 えっと。
まず、考えすぎる人や完璧主義の人などは結婚に向かないばかりか人生にも向かないのだろう、おそらく。それは岡田育氏が連載で語っているところである。固定観念が最大の敵。ソロ活動夫婦だってありうる。 
その件について。堀井氏が著書で語っているところをオレがかいつまんだ内容は、江戸のころには人間はあくまで「個人」なんかじゃなくて、ただ生きていてそのうち死ぬ存在で、生きているうちはいろいろするけどそれは別に個人の意思を最大限に花開かせるためなんかじゃなくて、社会の中でそれなりになんかしているだけでいいのであって、町人のすることといえば小商いくらいのもんだ。
 近代的自我なんてものはフィクションだ。
 
 ということを下敷きにして「姉の結婚」を見ると、どうもならん人間たちしか出てこないというか、真木くんにしても真木くんの妻にしても、どうもならんやつだなあと思う。うまくやってるように思っていても結局どうもならん感じになっているし。
 
だがしかし。
 
気になるのは、まさか再びでてくることはないだろうと思っていた、以前出てきたシングルマザーである。彼女は無事出産してまた登場してきた。名前はない。彼女は名も無く、夫もなく、シングルで出産して子供のために生きていくみたいな宣言をしている。(まあ不倫で男を捕まえられなかったんだけど)
 
 いろんな人が登場して困る。ヨリちゃんの妹はカレと結婚への道筋を理想的に歩んでいる。
「姉の」というときに妹がいないと姉がいないので、この作品のタイトルはヨリちゃんが妹からみられた場合のことになる。そしてそのことはずっと成立しない。
 
が。タイトルにそうつけた以上、達成しようとしまいと、そこを見て話が進む以外の方向はないのである。
 
 双方(ヨリちゃんも真木くんも)に、たがいが互いに向かっているベクトルが核としてあることはもうはっきりしている。それは幸せなことですね。読者はここでは神の視点になってしまっている。上から俯瞰して見ている感じ。
 
 となるとなんか最終着地点がきまっているメロドラマになってしまうのだが、それでいいのだろうか。
 オッサンはヨリちゃんに幸せになってほしいのだがその幸せというのはヨリちゃんが最終的に自分で決めることの幸せだと思うので、
 あのへんな作家のマネージャーなんかになることが幸せであるはずがないのである(ネタばれ)。 
  
追記
 で。
 オッサンとして女性の立場に感情移入どうか、とか思っていたが、このマンガはそれぞれの人間がそれぞれの立場で動いていて、
 誰もが「生きている人間」なので皆それぞれの意思を持って動いており、
 ヨリちゃんもルイちゃんも、真木くんも、おっさん作家も、みなそれぞれが「自分にとっての最高の状態」を求めて活動しているのであった。
 ヨリちゃんが軍艦島観光作戦(すいませんほんとは軍艦島じゃなくてなんでしたっけ・・・)に邁進しているのは実際としてはただの司書としての仕事だけではもてあましてるエネルギーのはけくちである。
 
 エネルギー。
 
 オレは正社員なるものになってみて思うこととしては「たぶんこれはずるい立場だ」というのがあるのね。
 
 オレが一人で生き残るためには余剰がある。エネルギーの余剰。
 たとえば定時で退社したあと何をするか。もてあますみたいな。 
 
 だいたいもてあますことはよくないことである。余計である。それが人類の発展に必要なよい発明を生み出すことは稀である。・

 よいかどうかは置いておいて。
 
 エネルギーは人類がそもそももっている活力なので、
 誰もがそれを保有していて、
 
 しかし美人とかイケメンとか結婚10年目でいまだにらぶらぶだとか、そういう「愛にあふれたやつら」はがむしゃらにエネルギーを発露させる必然性がなく、
 ではどこでエネルギーが燃えさかっているかというと、
 それは「恵まれず愛されず愛しても返されずところかまわず何かをどこかに発射しつづけていないとどうにかなってしまう」ような人
 なのではないだろうか。
 
 それがつまり、現実にそうであるかどうかを別として本人が本人自身についての認識つまり自己認識としての「非モテ」「裏街道」「ダメ人間」「暗黒人生」「毒男あるいは喪女」がある人なのではないだろうか。
 
 最終的にはそれをひっくり返すのがおはなしのたのしみ ですが。