よる

職場でちょっと有り難い人がいてくれてなにげなく言葉が交わされた。
 
まだ死んでない。
 
大塚さんの訃報と、小田嶋さんのコラムと、日常の再構築と、震災のような「決定的な破壊」について思っている、
大塚さんとは大塚幸代さんのことで、訃報がデイリーポータルZからリンクされていた。
そして記事一覧がある。
http://songmu.jp/dailyviewer/daily2.cgi?writer=%E5%A4%A7%E5%A1%9A%E5%B9%B8%E4%BB%A3
オレは大塚さんの書くメランコリックな記事が好きだった。
饂飩も好きだった。
そして大塚さんが自らの摂食障害について語ってくれた記事は大変熱心に読んだ。・
http://chikyu-no-cocolo.cocolog-nifty.com/blog/2014/09/post-10796.html
こういう記事、自分のあったありかたをありのままにふりかえることがいかに難しいかを最近しみじみ味わっているところなので、この記事のありがたさが身にしみる。
 魂が安らかでありますように。
 
【SNS時代である。ちょっとツイッターで検索すれば大塚さんの死を悼む方々の声がたくさん響いている。それはわかる。分かるが、これは、果たして、オレのような純粋な田舎の一読者にとってはどうなのか。仕事でご一緒したわけでもなく、なんでもなく、しかし言い方しだいでは同世代であり、オザケンの音楽は勿論魂にしみており、また饂飩も酒も好きだし、世の中にうまくなじめない感じのこと、いろいろに】

で、たまたま時期を同じくしてラジオで月曜たまむすびでおなじみの小田嶋隆氏が自転車で自損事故を起こして入院しているんである。それで日経BPのコラムは特別編とでもいうべきコラムになった。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/person/20130401/245941/?rt=nocnt
「貝殻が鳴らす音楽」
である。
このコラムで語られることは、個人の個人的な、日常についての語りであり、また日常はいかにして習慣で固められているかのことであり、いかようにもありうるという驚くべき問題である。
で。
 我々は習慣によっていびつな日常をも受け入れてなんとかやっている振りをしているのだが、それがそうではないこと、を露呈させる装置が大震災である。時々やってくる。2〜30年くらいの周期でやってくる。
震災がくると「日常」は外側から破壊されるのである。そして日常について誰もがそれをふりかえらざるを得ないことになるのである。
 
 で、オレは2011・3月の自分の日記をさっきよみかえしていた。オレが何に依存しているかの記録である。