こういっちゃなんだが日々は絶望とのたたかいである
なんだ
こういう表現はあまりに手垢がつきまくりであり
なんちゅう か
だめだね
なぜなら「絶望」は本当に絶望しているときにつかうべき用語で
現代ではそういうのは「かるく絶望している」というのである
「叱られが到来した」みたいな用語もあるそうで(ついったで見た)
つまり叱られるという現象があり
そこには本人の感情は何もないのである
べつに人格とその現象は別のものだし~=という事実である
感情は別の場所にあるにきまってるだろ
そんな「叱る Scold」みたいなことを堂々といまどきやるようなやつが
いるなんてね
いわゆる「躾」も古語になりつつあり
つまり行為とその目的は
どのように表現ーコミュニケーションされるべきかという問題群で
「叱る」みたいな「躾」は
指導と暴力を同一視した愚と同じだって話しで
オレはどうしても図書館にメモをとりにいきたいわけですよ
暴力を使用して追放された体操のコーチ(男性)について
その暴力をうけていた女性の選手のインタビューがあるわけだが
なんだかねえ
相反する感情もあったしただそれは不快な経験だったというのもあるわけです
ひとことでまとめられる現象などない
そんなに世界は単純ではないんだよ
「問題」もあるんだがこれは
山下の側に「権力と既得権益」があったことがたぶんそれは
無視できない事実だなあとオレは思っているんだがここに短く書ける
ような問題ではないと思うので夜にでも要約できるならしたいもんだと
思っている
「知らない」と言明することはなにも免罪符にならないしただ不遜なだけだとオレがそう思ったということと北原みのりの声明がついったでというような話しになるのではないか