というわけで『サイボーグになる』などを図書館にかえし
帰宅し
図書館で新聞チェックしたので今夜は有吉の壁がある
と
な
みた
あいなぷぅはすっかりいい場所で活躍してくれている
イワクラちゃんもいいところでいい出方だ
好き
ランジェリー回である
つけて
笑顔になっている
すばらしい
さて
まあなんちゅかほんちゅか
仕事はいやなものでここから愚痴である
つまりこどもおじさん(こどもじじい)である
オレが名付けた
しかし世の中では別の使われ方をしてるかもしれない用語である
オレが定義するこどもおじさんとは
「一方的に相手に向かって喋りつづける」
「相手の言葉をうけてそれにリアクションするということがない」
「ので一方的である」
「だから聞いているほうは全然別にその話しの内容が面白くもないので時間が無駄である」
「話しの内容は主にこどもおじさん本人がこれまで得た知識や経験であるがべつに経験が普遍性のフィルターをかけられていないのでその話しはただそのときにそうだっただけの話しである」
「自分はこれをもっているこれができるこれを知っているなどのことが中心」
「こどもおじさんは話してる相手に向かって相手への興味関心がまるでない」
「こどもおじさんの興味関心は本人の好きなことと本人そのものだけである」
「そのくせしゃべり続けるのである」
「相手がその話を理解しているのかとか興味を示しているのかとかそういった相手のリアクションを観ようという気がまるでないのでただしゃべっているだけである」
「〇〇ってわかる?とかのワードをつかう」
「相手がそれに何を(わかる/わからない)答えたとしてもその答えにはぜんぜんかまわずただその内容(答)を自分で勝手にしゃべりだすだけである」
このような感じであるよ
だれからも愛想をつかされて当然だと思うのだが
(ちなみにオレのかつて知っているもうひとりのこどもおじさんは離婚者でしたけどね)
特徴を捉えるのは大事であって
さらに大事なのは
特徴をとらえるときにオレの感情をなるべく混入させないことである
つまりこれはオレの描写の練習なのだ