映画「ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい」について

名古屋矢場町パルコ内

センチュリーシネマ

 

映画みてパンフかって帰りに図書館でキネマ旬報

主演と監督と脚本のインタビューよむという模範である

 

がしかし

 

なんだろうね

 

べつにオレは好きだしこういう「非常に繊細なところに光をあてるそしてあからさまな攻撃性を表に出さずしかし社会の中にある攻撃性の存在がカノジョらカレらをくるしめている」ことについての映画はいい映画だと思うの

 

じゃあなんで「がしかし」なのだろうか

 

オレが泣かなかったせいだろうか

 

うーん

 

ほんのかすかな違和感がすこしだけのどにひっかかるのと

あとはオレにとっては「映画的な構成の要点まとめみたいなかんじ」が

ひっかかるのと

オレにとっての「好きなシーン」が1個しかなかったの

 

の3点かなあ

 

1.ほんのかすかな違和感がすこしだけのどにひっかかる

例えば白城は主人公ななくんとその偶然の友人むぎちゃんの

すぐうしろにひょっこりとぬいぐるみサークルに現れて入部するわけだが

白城にとってのぬいぐるみの価値とはなんなんだろうね

それはあとになってきて

「ぬいサーの場所空間人間関係」が白城にとっては「戦場であるセクハラサークル」との対比で「両方とも」あって仕方ないのだからと本人は説明するが

かんじんのぬいぐるみそのものの価値が白城にとってはプラスの価値があるのか

どうかが説明というかオレはわからなかった

なぜなら白城だけがぬいサーでぬいぐるみに語りかけないからだ

イヤホンつけて読書している

ならばそれはぬいサーじゃない場所でもいいのでは???

 

あとになってぬいサーの空気の価値が(観客に)知られるわけだが

最初の時点ではぬいサーの独特な部分は明かされていないので

白城が入部する合理的な理由がない

んじゃないかな^ー

っておもったの

 

あとこれは原作のそれだと思うんだけど

ぬいサーの

皆がそれぞれぬいぐるみに話しかけるという「機能」なんですけど

 

それをぬいサーという場所で行わなくてはいけないのか

個人の秘密をわざわざ公共’(半公共)の場所で言明して音声化して

しかもそれは他の人はみなイヤホンをするから「聞いていないよ」という

なわけですがイヤホンしたってきこえるもんはきこえるだろあれだけ

集団で全員がしゃべってるんだからね

このあたりは原作読むと少しはわかるのか??

 

こういうことを言うような奴はこの映画のファンから嫌われるね

 

2.映画的な構成の要点まとめみたいなかんじ

なんというか

なんかねーイチャモンつけたいわけじゃないんだけど

主人公はかろうじて高校時代の「好きってことがよくわからない」

があるが

むぎちゃんはバックはなにもわからなくていきなりひきこもりになってから

あとで理由を明かすし

あと

女子とつきあってる先輩はまあなんとかわかるが

よく寝てる人とロリータチックなメガネの人はなにがどうぬいぐるみとしゃべらなくてはいけなくなったのかもわからぬ)(そうであることしかわからぬ)

そしてヒゲの男の先輩は世界全体の被害者についてこころをいためているが

たいへんもうしわけないがそこに感情が移入されることはぬいぐるみにしゃべるだけでは到底カバーしきれないくらいの強度の繊細さで社会生活大学生活もままならないのではなかろうか

などと思ってしまうのである

 

しかし物語はポイントをおさえつつすすみ

むぎちゃんがひきこもりになり

ななくんは白城に告白するのだが

ここも「どうしてそのようなことを?」と思ってしまうのであった

無理して恋人関係をわかりたいと思う気持ちはわかるが

それが無理であることも同時にななくんは自分でわかっているわけで

それなのになぜそのまま白城とともに突き進もうとしたのか?

というところのあたりがよくわからぬ

しかしそのあと白城がふって

ななくんがひきこもりになり

今度はむぎちゃんがななくんのところに対話しにくるのである

対話が最終的には「ある部分の救い」になりうるのだろうがそれは

対話どんどんしていこうという解決ではなく・・・・

 

そもそもがなにかをすっきりさせるような映画ではないのだる

 

3.好きなシーン1個しかなかった

オレの好きなシーンは女子4人で着ぐるみをあらって干す屋上のシーンです

そこだけは天井がなくて解放感があって京都だから周囲の山がみえて

京都ってそういう盆地ですよね

屋上はとてもいい

きぐるみが干される

きれいになる

 

この映画はぬいぐるみも一方的にしゃべられる相手として苦労

しているのでぬいぐるみを洗うシーンが意図的に入れてあるのだ

そうだ

インタビューにあった

 

いろいろ書いたがもちろんオレはわざわざ名古屋までみにいくくらいに

この映画のことは好きである(そうである予感があるから見にいったのである)

しかし

アセクシュアルだとおもったがそこまでアセクシュアルであることを強調

するような描写ではなかったように思う

それよりは

ときどき役割的なことばの暴力が出てくるところあたりからみて

そういう態度の暴力が

あるいはむぎちゃんの傷ついた痴漢の目撃が

もちろんそういう暴力犯罪を許してはならないのだが

直ではなく加害者が暴力と自覚していない範疇のやつの言葉もまた

暴力そのものであることは事実なんだけど

それと闘うのは容易ではなく

だからぬいサーというサンクチュアリをTHEYは作ったのであるし

そこの所属となることは救いでもある

救い?

ちょっといいすぎ

 

救いであるだけではおわらないからこそ白城という登場人物の

いる価値があるんだが

 

なにしろその新谷ゆづみさんの表情がとってもよくて

虜になりました

 

駒井さんがうつくしいのは知っていたが新谷さんすごいなあ

ということでした

 

映画ってむつかしいね

単純な内容のほうがつたわりやすいのかってそういうわけでもなく

単純なことを恐ろしい内容にする(イニシェリン島)というものもあり

この映画のように微妙なものを微妙なままに描こうとする挑戦もある

 

見てよかったです