昨日が広島原爆投下の日だったんですがいいかげん
センチメンタルを禁止にしたほうがいいのじゃなかろうか
と思うわけで怒りを忘れるななどいろいろ忘れるなと
いうわけですが「歴史」に立ち向かうのは大変でございまして
なにしろ「わたし」は「被害者」の「直接」という人は
もうすでにして死に絶えるところまできていてそれは
時間が経過したからでありますし時間が経過することは別に
誰かの意思ではない
もちろん悲惨なことがあったわけですが怒りとなると誰に対して
怒っているのでありましょかというときに対象が明確ひとつに
しぼることができない
アメリカに対して怒る
アメリカを参戦させたものに対して怒る
当時の日本国と日本軍に対して怒る
というときにオレは個人としては日本国と日本軍に対して
怒る
のが正当だと第一直観でおもうわけだが
ここでじゃあ比較として
ウクライナに対するロシアの侵略でロシアが第一の敵で主原因だ
というときに
「ウクライナのこれまでの政府の政治のせいではないか?」
ということもできるわけで
つまりこれは戦争に「完全にイノセントなただの被害者は存在するのか」って
話しで
広島や長崎の市民が完全にイノセントかというと
その面があるというみかたと
集合として日本市民は日本国政府や軍を暴走させる手助けをしてた主体である
という言い方もある
いまのウクライナ市民は完全に100%イノセントかしら?
オレは95%くらいイノセントだと思うんだが・・・
当時の日本国民と日本政府のイノセント関係は
日本国民はもうちょっと下がって68%くらいではないか
しかしその当時の戦時体制みたいな教育それから社会の
しめつけ
それから社会における全体主義と密告の蔓延
みたいな現象が確実にあったわけで
いやですねそういう社会って
というのがオレの基本姿勢なので
基本以外の部分では「完全にイノセントなやつはありえない」という
仮説を立てるにとどまる
だからセンチメンタルに「そんなひどいことがあったのだ!
二度とそういうものをおこさせないぞ!」とただ激情だけで
決意しても何の役にもたたないのだと思うからこそそういうの
もうやめれと思うし
そもそもの激情と同情による決意なんてまったくもってすぐ
全体主義となり組圧力にあったらけされちゃうんだから
もっと確固たる思想的土台がないとアカンと思うのである
それがオレが自分の頭で考えることがベースのはじまりでそれいがい
人間としてはありえない
と思うところのオレのベースなんですけども
どうもこの時期と沖縄降伏の日(6月23日)通称慰霊の日
になるといまでも永さんのラジオのことを
思い出すのであって
あんなにオレが熱心に毎週きいてたラジオは
伊集院以上かもしれないなあ
とか思うのであった
まあオレが女子として外山アナのことだいすきだっていう
こともあるけどもね