映画「SOMEWHERE」について

2023年12月14日

早稲田松竹レイトショーにて

 

2010年の映画でもう円盤買ってみている

のですが

映画館でスクリーンと音声とでみると

まるでちがう

ですね

没入がね

 

オレは「夢のようだ」と思ってみていました

それは

ホテルで暮らすというジョニーの暮らしがまるで大富豪の

パーティーピープルそのものでまるでもうなにも消費の予算の心配も

なくて それって夢じゃんね

なにしろ無意味に周回を重ねるフェラーリからはじまるから

 

そして荒野にフェラーリを路肩に停めておりて

足で歩いていくジョニーでおわるんだよこの映画

 

しかし全体としては夢だ

夢のようなジョニーの生活 楽しいのかそうではないのか

習慣のように二人のブロンド美女をまねいてホテルの自室でポールダンスショー

をみている

あれ面白いの? とか思うけど面白いのか???

酒もタバコも

 

夢のようだが酒の酔いは現実で 階段からおちて左前腕を骨折してギプスを

はめていろいろぎこちないところから話ははじまり

 

離婚していまは離れている娘クレオエル・ファニング)がやってくる

母親がなんかどっかでなんかあるらしく数日?あるいは今日だけ?クレオとすごす

ジョニー 

アイススケートまで送っていき

さいごは家へ送る

 

夢のように美しい少女クレオ

自分の娘

 

ファニング姉妹

姉のダコタは

妹のエルは

ちいさいころからセレブで育つなんて現実にはロクなもんじゃない

それは言えるが

だからどうなる

 

そのうちクレオの母はどっかでなにかなのでいつまでかわからんけど

クレオをたのむといってジョニーのところにおいていって

母はどこかへ(どこだろう)

理由もわからない

最後にクレオはジョニーの隣で

母がいないことについて泣く

ジョニーもそばにいてやれなくてごめんというのだが

その声はヘリの爆音できこえない

 

それでもしばらくのうたかたは

イタリアで映画祭のためいくジョニーとクレオ

楽しい

しかし静かな旅

イタリアのホテルのスイートについてるプールで2人

かえってきてロスのホテルのプールで

プールサイドでデッキチェアでサングラスかけて静かに

よこたわる

青い空の下のホテルのプール

とても静かだ

 

まるで夢のような静けさ

 

Wiiスポーツであそぶクレオとジョニー

携帯電話はまだ文字メッセージ中心で

スマホ時代は到来していない

やたらとジリリリとうるさい電話が鳴る

ホテルの電話

ジョニーの携帯電話

うるさいね

まだ電子音の時代ではないのだ

セレブが健康とかヴィーガンとかいうのが主流でもなく

イタリアの芸能人の描かれかたも女はボインにきまってる的ステレオタイプ

これは映画という夢なのだ

 

ジョニーは夢からさめて終わるのか?

 

なんにしろさみしい

 

サマーキャンプにいくクレオ

クレオはキャンプがおわったらバックトゥスクールだが

友達とうまくやれてるのか?

 

そういうことは映画には出てこない

夢だから

 

なんだか

 

ホテルのロビーにいる「ギターをひき歌って客を楽しませる老人」の

ギターは超ヘタクソで

フェラーリを車寄せまでまわしてくれる老人もいて

 

ホテルってのは「余剰人員」にもみえる個別スタッフを

たくさんかかえてるのだ

という

旧きよき時代がまだのこっていた

 

今もあるのかね

 

お金が潤沢にあればね

 

レイトなのに東京だから客がけっこういた

外人もみにきていた

 

おわって高田馬場の街を地下鉄駅まで歩くと

まさにそこは東南アジアであって多国籍人間がたくさんおり

メシ屋は中華韓国タイイスラムインド

もういろいろであたりまえで

携帯電話屋の店先のうたい文句も中文でさあ

ケバブ屋の前とかUberみたいな雰囲気の男のわかものが

路上駐車したバイクと自転車とにまたがって3人くらいでケバブとか

食ってたり

万頭(おまんじゅう)の中に肉とかいれたようなやつを歩きながら

食う人とかほんとにこれは香港(かつての)とかとタイマレーシアフィリピン

東南アジア的なものがまざった世界でしかしこれも日本で

カオティックな高田馬場

それでも治安はコドモが一人で22時に地下鉄乗ってもまだ大丈夫という

日本っておかしなところはおかしいなあ

と思うのであった

 

ソフィア・コッポラが日本を映画に出そうとして

Lost in translation」を撮ったのが2004(2004は日本の劇場公開)

 

それこそオレは一昨日昨日と東京をうろうろしながら

都立中央図書館でまったりした時間をすごしながら

(中央図書館にもコドモスペースがあって机で自習してる

ガキがいるんだze!クール!)

文學界」に掲載の橋本治「草薙の剣」の評論を読んでいたのだが

これがまたこの橋本の小説が

日本の「時代」を主人公にしたものだという評論であった

すべてがこわれて時間がとまる

そういう時代

そういう時代の中を現代の日本人が生きている

という小説である

売れなかっただろうと思うけど

もちろん歴史にのこって

そう

だから2023に評論が書かれたりしている

 

時代は確かに橋本の言うように「止まる」とか

逆戻りしたり

社会が成熟に向かうことができなかったりどうしようもなく

アホのままでいる

ような日本

なんだろうとは思うのだが変化しないではいられないので

外国人がまざりあって

それこそ弥生あたりに遺伝子が大幅にまざっていくように

我々だって運命的にこのままではいられないのである

 

SOMEWHERE

ある時代のロスの米国人のとあるくだらない男とその美しい娘の

もちろん美しい娘の美しさは移り変わっていくなかのある時点の美しさだし

男のくだらなさもまたある時点でピークをむかえるくだらなさである

たまたまそれが21世紀初頭のアメリカ西海岸だった

んだろう

 

ロスを舞台にするとろくなことにならないことばかりだ

 

だからといってニューイングランドだったらいいのかってそうでもないだろ

 

オレは「あの川のほとりで」をまた読みたくなっている

(Last Night in Twisted River, 2009 )

IN

なんだねえ原題  まあそうだろうな川に沈んでその「中」に死体があるのだから

 

ジョニー・マルコも

フェラーリ(自分の象徴)

を荒野に捨てていくことで一旦自分を殺して死体を放置して

そこからどこか別のところにいくということなのかなあ

どうかなあ