1月21日(日)

・昨夜は最終的にずっとぎりぎり寝るまで物語シリーズ

みていた

花物語 するがデビル」を最後までみたのは大きい

というのはオレは物語シリーズの熱烈なファンだ!と自称していながら

花物語(だけ)は原作未読でアニメも未視聴だったからだ

それはなんとはなしの神原駿河へのなにかの嫌悪感だったように思う

 

ふざけ方が気にいらないのである

わざとコミュニケーションを成り立たせないようにしているかのようにみえるところ

 

でもそれは「わざとじゃない」ということも知っているというのに

 

しかしあららぎ君のいないところでは神原は本当に普通のまっすぐな

女子体育会

であってまさに誠実を絵にかいたような女子偉丈夫(へんないいかた)

なのである

お姉さま・・・とか下級生から慕われて当然みたいなね

 

(この項つづく)

(つづきです!)

時間をかけて「花物語 するがデビル」をさいこまでみた

さいごの方には大学生のあららぎ君とか出てきて車に神原を乗せて走ったり

しているのだる

まったくあららぎ君はさすがに全方面女子から好かれるねえ

 

そしてこの話をみたことでオレの神原に対する印象は180度かわった

なんと神原のことを「爽快な奴」と思うようになったのである

それはするがデビルのおわりかたが

あららぎ君との会話で

いろいろと神原もこれからやっていくことがある(沼地の

墓参りとかね)し

さわやかにこの先も進んでいくのだという人間としての

旅路のはじまりみたいな感覚が最後にあるからである

この物語シリーズは多くの物語の束ねたものであるが

大変そのようなさわやかな終わり方は珍しいのである

だいたいあっけにとられて終わるとかころされたかんじでおわるとか

後味だってさっぱりしないものばっかりなのである

しかしこの「花物語」は

なんだろうねこの

爽快な

感覚とは

 

たぶん神原がもともと「ねちっこくない」つまり自分の中にくろぐろと

したものをかかえていてもそれを自覚してそしてそれと決別しようと

いう意識があったからこそのさわやかさだけが残る終わりだと思うのである

 

決別

そうだね

 

そして未来が真っ白だ

 

ほんとにつくづく思うのだが「怪異」というものの扱い方が

西尾維新はうまいというか

怪異を登場させそれが「人間のマイナスの感情やストレスによって生み出される」ものとして位置づけるなど

SFであるが

伝奇SFではあるのだが

ジャンルにおさまらない青春伝奇SFアクションバトルを生み出す感じである

 

そう

青春

いちばん青春にふさわしいのが神原だ

 

あららぎ君とひたぎさんは恋しているけど恋愛感がほとんどない

あるようでない

あったのは

だけだろうね

 

オレは何を書いているのだ

 

ひたぎと星のくみあわせがすごくオレもそこが好きで

星は変わらないじゃないですかあ

というね

地球になにがあっても星たちは地球のものじゃないから

ただ見えているだけのものだ

だから変わらないのであるし

雲の上にずっといつもいる

 

なんだろうね

 

もうずっと何年にもわたって永遠の青春のようにオレが物語シリーズ

から離れていかないのはどうしてだろうね

 

またお金がはいったら原作本を買いなおすか・・・

あるいは引っ越すか・・・広いところに

なー^ーんてね

 

しかし夢が大きいのはいいことだ

たぶん

(追記おわり)

 

・あさからちょっとだけ江端さんの備忘録読んでいて

まさにかれは さいきんは

ウツ

っぽいかんじの悲観を書くこともあれば

前前からの社会に背を向ける系やそして家族のこと

娘のこと妻のこと

を書くわけだが

 

オレがちょっとだけ今朝思ったのは

そういう「家族を為して妻(つま と書けば男女区別なくなるのか・?)がいて

コドモがいるような人間」は

社会のこととか(”えらそうに”)書く場合に

オレが(”えらそうに”)書くときとは違って

社会に対してものをいうときにバックに家族がいるわけである

家族の存在を当然のものとしてしかしそのことに言及しないで社会について発言

するときにどのくらい当事者として描いているのかってことで

 

オレが何を言いたいのか」わかりにくいとは思うが

社会について「公正と正義が貫徹されるべきである」というときに

同じ人間が電車でよわよわ老人に席も譲らないのであれば

それは矛盾であり不正義であって発言の真正性さえも疑念をもたれるわけじゃん

 

つまり発言や執筆の内容はそのバックにある「人間存在生活様態」もまた

証拠としてはたらいてしまうということをいいたい

 

オレは社会なんてこわれてしまえと思う一方で

社会がこわれると行政サービスがこわれるのでそれも困るなあと

同時に思っている

 

家族のある人にとってはどんな予算配分よりも

つまりじじいばばあのいない家庭(親と幼い子供だけ)であれば

子供環境に優先的に金を予算を配分すべきであると主張するのは当然で

高齢者予算なんかあとまわしにきまってるだろそんなすぐ死ぬようなやつに

予算やることない!ぜ!

と思うことがある

(仮説)

としたらそれは「不正義」なのかね?

って話である

 

自分の当事者性と「社会に向けた透明な人間としての発言」が

くいちがうことは当然ありうるって話だよ

 

透明な人間なんてほんとうはいないんだからね

 

だからそこで社会の代表みたいな顔してテレビにでてくるような

やつを一体どうやって信用すればいいのか(いやさ信用なんてできません)

 

ということになるのである

 

日曜のTVなんてそんなもんだ