ゆう3(しごとにおける)

ところで今日はやとわれ仕事ももうすぐおわりなのだが

そのキャリア(13年ちょい)ではじめて

カンファレンスにおけるテーマが死だったわけだが

それは

まあめったにない機会ですねしかし

そこでは「ありえたかもしれない可能性」について語るのは

 

オレはそれは無意味だと思っていて

しかしまあ再発防止とかいったって

個々のパーソンが別々なのでそれは意味ないと

思うのであった

方法はいろいろあるだろうが有効性は

薬効の話してるんじゃないんだから個別性が

大きすぎる

カウンセリングが著効するシチュエーション

というのがどのくらいあるのか

あるといいね

オレはそんなにないと思っている

 

個人的には

 

個人的には生死はサイコロの目が振られてそれで

何の目がでるのか

それは正確なサイコロであればだれにもわからないし

予知もできない

というのがオレの支持する立場であって

偶然性や偶発性に支配されているのが我々の生である

確信するにいたったのはその死の御陰である

 

あといま51なのでもし70歳くらいでうまいこと

疾病による死を得る(ゲット)ことが可能(able)

であれば

たったの19年をあとこれから過ごせばいいだけなので

貯金もなにも使い果たせばいいだけの話なのである

 そう思うと

気が樂だ

 

どうも職場におると人の死がやけに身近でどんどん死んでいく

のである

それは別に怖いことというよりも

そこにあることとしてとらえたほうが

受け止める側としては

気楽だし安心もできるのではないか

 

山道を歩いていると怪我したり

滑落して死んだりしたら

いかんなあと思うのだがそれは

死に損なったときに大変な救助費用を負担しなくてはいけなかったり

とても大変だからだ

それが怖いので登山道では極めて気を付けて歩いているし

バテて帰れなくならないように途中で引き返したりもするのである

 

そういう意味では死んでしまうのがラクであるのはそれはそうだと思う

それはまあそういうこともあるんじゃない

くらいのものである