人は真に「真剣にむきあって話を聴いてもらった」ことがほとんどない

のではないか

という話がついったにあった(なんでもオレのソースはネットの話

だらけである

そのくらいツイッタの「おすすめ」にランダムに人気のあるツイートが

本当にオレがそれを知る知らない興味あるなしに関係なく

あがってくるのをそれをみている

アルゴリズムとしては「人気のある~いいねがついている~」が基準

だろうとは思うので本当のランダムになにかをみているわけでは

ないがそれにしてもバラバラ感がすごい大きいのである)

 

つまり真剣に対人で「人と人で」向かい合って真剣に話を

聴いてもらった(受け止めてもらった)ような

経験が

ない

というのである

 

だからこそいわゆるネズミ講とかに関わってしまうのかもしれないけど

あれってはじめは話をきいてもらえるんじゃないかしらん>?どうなの?

しらんわ

 

ともあれ人生は長いが「真剣な人間関係」を築くことが可能であるチャンスは

多くなく

実際に「皆無」なまま死んでいくこともあるだおる

 

だおる

 

そういうことをまるでいっかいも考えない(そもそも話を聴く/語ることについて

意識したことなどない)人もいるだろう

 

だいたいは「聞いてもらっている」「耳を傾けてもらっている」かどうかを

人間は相手の態度を観て判断しているらしい

まじめにきいているのか

まじめではなくほとんどきいていないのか

オレ(自分)に対してまっすぐむきあっているのか

あるいはナナメなのか

 

それこそオレだって高校のときの担任のうちの1人の先生(教師でよかったのは

あの髪チリチリパーマの女性の教師だけだったなあ)とか

岩手県にいたときのメンター的な人とか大学の同級生の女子(英国に留学にいった)

とかそのくらいではないか

べつに話の内容が深まったかどうかは関係ないのであるここでは

 

ただ「態度(Attitude)としてまっすぐ向き合ってもらっているかどうか」くらいの

ものなのである

 

ふだんきいてもらってない人は話すチャンスがくるとえんえん

相手にかまわず話つづけてしまうんだってさ~~

それはオレが接客業で何度もありましたねえ

対面でもあったし電話でもあった

たいへん迷惑だった

 

相手の反応をみていない方々だ

 

しかしオレもいつ相手の反応をみないでやらかしているかもわからない

 

わからないからこそやらかすのだ

 

それはこわいね(客体としてメタ視点をうしなっていると自分で

自分を制御できていないことになる)

こわい

 

それこそ『所有論

を読んでいらいの「自分と自分」の関係性がどこでも気になるのである

 

自分を殺すことはできても 自分で自分の死を生きる(矛盾形容だが

まさに自分の生命の死を自分みずから体験し最後まで体験しきること)

不可能だ(なぜならさいごに意識がなくなる瞬間のあとに死が来るだろ?

それは死の瞬間まで意識がないという点で体験していないことになるのだ)

 

自分のことなど自分コントロールなんかできないんだよ

たいていのことは

だからやりたいことがうまくいかないって

いつも言ってる

 

みたいなことがオレの脳でぐるぐるしているわけです