現実として実際に「社会は変化している」
これは
ここに
2つの
ワードを挙げてみたいが
・新自由主義(経済)
・発達障害
である
20世紀のおわりから21世紀の
とくに日本
まず「新自由主義」がやってきたが
これってなんなんだという話
WIKIPEDIAから気になる部分を抜粋するならば
「1980年代にはジョン・ウィリアムソンによって、ワシントン・コンセンサスが成立し、均衡財政、福祉・公共サービスなどの縮小、公営事業の民営化、グローバル化を前提とした経済政策、規制緩和による競争促進、労働者保護廃止などの経済政策が体系化した」
ってことである
1980年代というが結局21世紀日本だって基本この路線なのである
この路線じゃないと経済はなりたたない
社会民主主義みたいなのではなりたたない
分配を厚くするなんてとんでもない!
みたいなことである
国家として経済がいいということが大事であって
ミクロの国民みんなの実像とかどうでもいい
かいしゃがもうかっていれば
それでいいということにする
かいしゃがもうかるためのことをする
かいしゃが個々の従業員をどのように扱うかは
かいしゃ個々の自由である
みたいなね
かくして日本はどんどん全体として分厚い貧困層がうまれ
趣味もなくただ生きるために汲々とする高齢者労働者の群れを産んだのである
(それまで蓄財もできなかったし計画もしなかったしそのような
教育もうけてこなかった)
一方で
・発達障害
であるが
そのありかた実際にこうであるこういうこどもがいる
こういう大人がいる
ケースとして発達障害であるとみとめられる
それは周囲からの「配慮」が
あったほうがいい
とされるし
こどもとしては「配慮のできる教育環境」があったほうがいい
という
ことで
しかしこれが「医療ワード」ではなく「社会文化ワード」として
消費されるのが21世紀日本で
つまり「配慮」である
どうしようもないヤンキー崩れ爺ホモソ野郎でさえも
最近は
パワハラセクハラというのがあり
その原理はわからねども
どういう行為がそのように社会で呼ばれるようになっているかくらいは知っている
ホモソ爺でさえもそれを無視できないくらいに「ハラスメント」が
人の口に膾炙するようになった結果として
「そういうものがある」(正しいかどうかのコンセンサスは未だだが)
ということが広く多くの人間に知られるようになったのである
そこに必要なものは「配慮」だということも知られるように
なったのである
ホモソ野郎もそれを無視したままでは生きていかれなくなったのである
たぶんね
そのようにちょっとずつ社会は変化して
「配慮」はすこしずつすこしずつ進んでいくのであるし
身体障害があることと国会議員であることは背反しないから
国会が議事のために環境設定をしろということになったのである
こういうムーブと
は
相いれないのか?
相いれないとしたらどこが具体的に相いれないところなのか?
なぜ相いれないもの2つが同時並行的に社会の変化としてそこに
ごろんと転がっているのか?
(これは社会がひとつの主義だけで一方的にすすむほど単純な構造ではない
ことを表しているというのが仮説である)
つまり弱きものへは配慮が必要だとなるのか
弱きものは自由競争によって負けてもらって負けた者としてそれを受け止めてもらうことにするのか
公正競争の環境とは何をどのように整備すれば公正であるといえるのか
みたいなところがおそらくは(哲学の)現代の課題である
他人とのかかわり
公正さ
価値
などが保障されないと我々はこの社会を安心して生きていかれないのだ
戦争もそうだね
安心をおびやかす輩
しかし輩というと排除したくなるが
あらゆるものが「排除」すればいいというものではないというのが
21世紀であって
イスラエルがこの地から排除されれば解決するわけでもなく
発達障害が排除され(略)
そもそもいま挙げたものやことは「排除ということはできない」事物や人物であり
もう存在しているのである実在