なぜAdoちゃんあのちゃんの対談(対談じゃなかったけど)に
注目しているのかというと「人生哲学」のようなものを
彼女たちに感じるからである
つまりは
オレ(たち)が悩まされているものの正体は
なにか
ということと「それでどうしたらいいのか」である
基本はその2つに答えることである
それで最近ずっとネーゲル「The ABSURD」について考えて
いていろいろ解説読むもそもそも構成がわかりにくいのでは
というのがこの人の文
トマス・ネーゲル「アホらしさ」 - うつし世はゆめ / 夜のゆめもゆめ
たくさん引用あるのがこの人
死生観に関する随想その42(トマス・ネーゲル「人生の無意味さ」(1971年)から) | 飢餓祭のブログ
前の人によれば訳は「アホらしさ」だというが
それでいいのではないか
所詮アホであり
町田先生も「オレは他人様よりもすこし劣るアホである」精神を推奨
している(『しらふで生きる』より)
それこそマルクス・アウレリウスの時代からずっと
人間は書き残したりしたりいろいろしながら
さぐっており
それは自分がどうもうまくいっていないのではと
思い
ではどうすればいいのかを
過去の他人の経験や
同時代の他人の発言にヒントを求めるのである
そうでもしないとしていられないのである
そうでしょ
いくら書店古書店を開業したいろんな人の文を読むとて
それはヒントにすぎないのであってオレの環境は
オレ独自のものなのでそのまま適用できないしね
それにしても抽象的な分析哲学よりは
オレはいまここにある「人生哲学」がすきだけどね
「目標の実現」を掲げることが苦しいと楽しいりょうほうの特徴を
もつ
とかそういうこと教えてもらったし
なんかやっぱりさっきも書いたNさんとか
のことを想うと「この人であればこのような状況で
どのように行動しただろうか」と考えるのが
いわゆる「仰ぎみる人物」たる所以であるから
あときりっとした顔とかね
記憶はあるときまではある