一回「こりゃもうアカン」ところに行くとなにもかもがうつくしくみえる
ことがある。
ピンドラ16話。ものすごい久しぶりの生存戦略だ。毎週みていると、この、時間の経過が、とても、味わい深い。大好きだ。あのテーマを聴くだけで血潮がたぎる、涙が出る。
マケン姫。いまやもう乳袋という言葉が市民権を得て(得てない)、楽しめる。
それははがないの肉も同様。
フロいってきた。風呂の中で、「はたしていまオレは正気なのかどうかを、自分で確かめる手段は無い」とか思っていた。つまりひとつの系の中では真であることを証明できないみたいな。
ここに他人をもちこむのは簡単というかシンプルであってみんなそうしているのだろう。きっと。
なんでも書くが今日は職場で自分の誕生日を自分で祝う人があらわれた。
しかし、食い物を異常な熱心さで他人に勧めるというのはやっぱり常軌を逸脱していると思うのだ。とくにこれは食い物に象徴的な意味がこめられているのである。
オレがもらいものの食い物を嫌悪して捨ててしまうことと関係がある。
自分で買ったものは愛しているので全部食う(あたりまえだ)。
G.A.W.さんより。「すごいだるいのでがんばらねばならない」
http://d.hatena.ne.jp/nakamurabashi/20111029
たしかにそうだ。おっさんだ。奇遇なことにオレは同い年なのである。たしかそうだ。
といっても境遇はかなり違う。
違うが、おっさん的なことについて、オレも、そうだと思う、とくに
(引用)
「いままで自分がやってきた方法論では、死ぬまで同じ状況が続く」あるいは「この方法論ではいずれ立ち行かなくなる」みたいなときに、あーあもうどうにでもなーれみたいな。しかも本格的にどうにでもなーれとか思うには世のなか知りすぎてて、そう簡単に自暴自棄にもなれない。
(引用おわり)
のところ。
たしかによくもわるくも慣れてしまっている。
だるい。その通りだ。だるいお。
この先に、なんにもないと思ったときに、はたして他人様はどうやってモチベーションを維持しているのだろうと、いつも不思議に思ったりしていたりしているのだが、多分半分くらいは「家族のため」であり、半分くらいは「どうでもいい」であり、半分くらいは「どうでもいいが、それでも生きてるし、なんか続いている」んじゃないかと想像する。
本当の疾患としてのウツになっていない場合には、感情には波があって、沈んでまた上がってきて、つまり「沈んでもうフィジカル的に何もできない」ところまではなかなか行かない、行けない。のではないかい。
いや別にオレがウツにくわしいわけではないのだが、精神状態が身体フィジカルに直接影響作用している例というのをいろいろ見ていて(職場で)。本当に何もできなくなってる状態というのがあってけっこうすごい。棒みたいだし。
まあつまり「何かを変える(いままで変えていなかったのは、それをするのが、面倒だったからだ)必要がある」 んだ、
変えるというのは「このままでは(さっきの引用)」ってことだ、だから変える必要がある。
理想があるんならその理想に向かっていけばいいと思う、一足飛びにそこにたどり着けないことでイライラしても仕方がなくて、着実な一歩からやっていくしかない、と、わかっているし、そのことは「はみだしっ子」に描いてあった。いまだにオレのバイブルなのか。そうだ。ほぼすべて覚えている。なんてこった。
そしてオレにも理想はあるってことだ。