よる

やあ。
 
先に。ライブ感想。ヴァイオリンと、セロ、ピアノ。トリオがハンガリー・ジプシー音楽をライブハウスで弾いて歌って。たのしいライブ。
 東欧のそういう土地の歌は主にマイナー旋律であるが、日本だって同じようなもんだ、メジャーとかマイナーとかそもそもなかったんじゃないか。
 そしてそういう中でリズムが高揚してきて歌って踊って叫んではやしたてるのである。いいものを見た。
あと、この土地(宮古市)にもちゃんとそういうことをする音楽する場があるんだなあと思ったよ。満員立ち見だったしね。
 
 次。
 
 「→その後」の件。朝にいそいでメモ程度で書いた件。
 
 つまり。善性はオレの内部にはたぶん存在しないのだが、外にあってもオレがそれを観察したのならば、その実在を確認したことになるのである。実在することが大事であって、オレの内部にあるかないかはどうでもいい。なにしろそれはオレの権能の内には無いからである、そもそも。
 
 善性があると安心すると思う、つまり「この世は捨てたもんじゃない」である。
 
 そりゃあ、善性を持って(権能の裡に)他者に対して善き行いをもたらす主体になれればなろうて歓びのうちに生を過ごし果てることができるであろう、しかし残念ながら善き行いを行う主体になるためには
 このような堕落したオッサンではいかんのである。
 
 いま歓びという文字を見て、あらためて、他人同士だがはたして出会いに愛を付加する力とはなんだろう。一週間に一回の邂逅であったとしてもそれが大きい歓びになるそういう関係性。オレはそれをつくれないのだが、すべての人がつくれないのではなく、それを可能にして実践し実現している人がいる
 と、「では、なぜ汝はそれを可能にしえないのか」と問われる門。
 
 ごく一部の有能な人間だけがそれを可能にしている
 
 と言い訳したところで明るくなるわけではない。
 
 しかしまあ善きものを伝播させる事業が。
 
 何を書いているのだ。