がしかし
一生それが戻ってこないとしても
それでもなんとかやっていく(do without) なしでやっていく
しかないわけで
しょうがないじゃんねえ
小さく狭くというのはオレが
その
全能感にも似た素晴らしい歓びの感覚とか
大きな達成感とか
そういう ゴージャスで素晴らしくぱあっとひろがる
素敵なかんじとか
努力して目標を達成して他人から認められてすごく嬉しいとか
愛が結実してこころの中の火がぱあっとひろがって暖かみがじんわりと満たす
みたいなそういうプレシャスな感じ
まさに「歓び」なんだけど
悦楽というか
そういうものはもうないのだ(そういう季節は二度とめぐってこないのだ)
と
なったとしてもそれでもなんとかやっていくためには
小さく狭くなった自らの姿をそのものとして受け入れて
これでも狭いながらも貧しい長屋でありますと
胸を張って十分にというか程度適切に
なじんでいく
くらいしか戦略として生き延びる
ストレスをほどほどにする方法が
そのくらいしか思い至らないのである
うつわが満たされないなら
器を小さく狭くするくらいしか思いつかないわけです
でもそれで充足してますとなれば
それはそれでありがたしと思うことはできるよきっと
と言いたいわけだね