考えることの個人差

「あの頃。」がついに公開だってSa!

ハロヲタを松坂くん(桃李)がやるっている

アレですよ

宇多丸役は誰なのだろう

 

やれやれ

 

さて

 

リン先生の教えにしたがい

(ひとりキャンプでは「やること」

決めておかないと

すぐヒマこいてやることなくなっちゃうよ!)

 

 キャンプでやることを「読む」に決めてたので

文學界」の國分氏と若林氏の対談読んでた

オレが気になったのは

「自分と話してる」「自分に寄りそってる」

つまりあれです考えることの直喩というか

脳内で自分と会話する

という形式の「考えること」ですね

 

 

その話は19日の #アシタノカレッジ でも武田×又吉トークで出てきたぜ 

 

(だいぶ気になっているので覚え書きしとく)

 

 

そうなんだよ

 

つまり

 

オレとかは

「考える」ということは脳内で言語を使用して

ひたすらこうでもないああでもない

眼の前にないものでも想像で像をつくって

とにかく考える

そういう脳内作業をやっているのだが

 

サリエンシーってなんだい(また買うの?)

 

ラジオ「アシタノカレッジ」に出てきた話としては

つまり

そういうことをまるでしたことがない

あるいは

自覚的に行ってはいない

という人間がいるみたいなんだ

どうも

 

信じられないけどね

 

でもそうなんです

 

つまり考えることは

個人差がありすぎるってことなんだ

 

たしかに「言葉が通じない人」というのがいて

彼彼女らは

きいているようで

人の話をきいていない

というか

きく

ということ(理解すること)が

できないのだ

 

学校で何やってきたんだと思うが

まあ

ディスレクシアみたいなもんなのかもしれないし

または違うのかもしれない

 

とにかく「考える」ことは

一部の人間しかそれをしていないようなんだ

 

だから

ある意味では

他人んからなにかを言われたら

それを

「考える」プロセスを抜きにしてそれを

信じてしまう簡単に

 

そういうことも起こっている

のだろう

 

世界のあらぶる様相  

 

おそろしいね

 

でもそうなんだよ

 

あと

DVをする高年齢男性の心理もおそろしいが

かれらには

家族の人は

自分の自我とは

別の自我だ

という意識が

ない

らしいのだ

これもまた恐ろしいが本当のことらしいのsだ

 

 リンク

社会的評価が高い人がDVをする心理|現在のDV問題について、カウンセラーの信田さよ子さんに伺いました|幡野広志|cakes(ケイクス)

 

これは

「今だけ無料」なのかどうかわかんないけどね

 

一部引用

 

信田 加害者には3種類ある、という有名な説があります。1つ目は家庭内でも家庭外でも暴力的な人で、わかりやすいですね。2つ目はなんらかのメンタル的問題を抱えていて、スイッチが入ると止まらない人。3つ目は社会的には適応していて外面はいいのに、家族に対してだけ支配的な面を見せる人です。

―― そうなるのはなぜなんでしょうか?

信田 その人が持つ家族観(夫婦観)の問題だと思う。ある団塊世代の哲学者の方と話したときに、彼が「家族って自我の延長でしょ」って言ったんですよ。私は、え?と思って。すごい言葉じゃないですか。すると、そこにいる男性たちが「そうだよね」って頷いたんです。いやいや、勝手に自我の延長にされたほうはたまったもんじゃないですよ。”

引用おわり

 

この記事の信田先生の書いてる基本的なところの記事

家族の暴力への援助 ~その歴史から対応へ~(信田さよ子:原宿カウンセリングセンター所長) #つながれない社会のなかでこころのつながりを|「こころ」のための専門メディア 金子書房

 

世間や世代でも意識は変わるというけれども