フィクション

まちがいなくフィクションに耽溺できる人と

できない人がいて

というか必要ある人と必要ない人がいて

 

オレのメンターなどはまるでフィクションを必要としない

タイプの人で

 

オレなんかは圧倒的に乾いているのでフィクションを必要としている

 

なんだろう

 

気持ちが動かされるからだ

 

必要としていない人というのは

気持ちが動かされるかどうかとか

とくに大事ではないのかもしれない

 

若林が言っていた自分との対話みたいなところのこととか

自分と自分が対話するみたいな

そういうのって内面の問題じゃないですか

 

フィクションに気持ちが自分の気持ちが

動かされるというのは自分のそとにあるものによって

自分が動いてしまうということなんだがそれは

読む自分と感じる自分の別れ

があるのではないか

読んでいるのは自分でAとして

Aは読むことをすすめていくのだが

 

一方で感じてしまって動かされて

漂うしかないBという自分もいる

 

Bが感じる存在で

Aは先へとドライブしていく存在

 

「私をくいとめて」では

Aという脳内相談役が存在していたわけだが

 

あるいは「勝手にふるえてろ」でも

現実には存在しない他人との間で対話をかわしていた

光景がある

 

他人はそんなふうにふるまっていないので

そこにいた「対話する相手」は

つまるところ「自分」でしかありえない

 

そんなふうにフィクションの中では

自分は分裂するし

揺らぐし

 

分裂したりしたことは

いままで一度もない

というのであればそれは強烈な自我が

単一な自分であること以外の存在を

おおいかくしてみえなくしているし

サイレントにしているのだと思う

 

別に一生にいっかいも自分との対話をしたことがない存在

というのもまたそれはそれで

オレは想像ができないのだが

あることはあるんだろうなあと思っている

 

脳内では言語によってしか思考はありえない

 

気持ちはモノローグ