まあそれで

それでさあ

なにしろ「Being Digital」を

英語ペーパーバックで読んでたのは

(まっくろ表紙がかっこよかった)

20世紀の末のことだしまだ携帯電話もスマホもなくて

PCは家にあったけれどもネットで

なにしてたって

2chでもしてたんじゃないの

そんだけだよ

 

まだまだネット社会とはなんぞやという世界であった

オレの家にも固定電話はあったしね(回線は1986頃買ったのか)

 

だからそう当時は「ネット社会の姿とは?」というのが

想像できなくて

イメージが大切なんだけど

 

スマホなるものはどう使うかなんて

スマホ以前には

それを想像することができないわけです

 

しかしわれわれは行動を何で変容させるかといえば

他人の意見とか

他人から得る情報だったわけで

それが

ネットを経由して属人的ではない情報にかわっていったわけです

 

かつては属人的ではない(匂いや重さのない)情報なんて

映画館

CD

そんなものだったのにね

それらはぜんぶ「モノ」や「場所」だったわけです

オレがそこにみにいくか

オレがそれを買いにいくわけだ

 

それが音楽を持ち歩けるようになり(ウォークマン

 

文庫本とかは持ち歩いていたが

 

アニメは違法アップロードによりネットに乗るようになり

(かつてのニコニコ動画

 

そしてあらゆる情報の洪水がネットに溢れてそれからというもの

ネットの溢れている場所が公共だということになり

しかし番地がある

見てもらうのかそれを探して見にくるのか

なんにせよ番地をつかってたどりつかないと

いけない

ここだよ!

と広告を出す

何処に出すのか

出す(出稿)ことを場所を買うようになった広告野郎

 

しかし何度でも書くが椎名誠

アド・バード

という「方法」を考えて空をとぶものがうるさく声高に

声を出してむりやり聞かせればいいんだ大衆に

考えたのである

いかにも広告そしてマーケティングの雑誌記者であった椎名らしい

発送ともいえるんだけど

 

それからというものネットの上の番地においてそれをどう

他人の脳にとどかせるかと考えるようになり

幾星霜

 

手段

 

紙つぶてじゃないんだよ

 

まあ広告代理店が一旦天下をとるわけだよ

 

そしてそいつらはしょうじんかんきょしてふぜんを為す

ものだったので

金の使い方が他人から糾弾されるようになりこいつらは

悪だ

と倫理の炎でもやされるのである

 

こういう広告野郎と

宗教的なかくれみのを使う野郎と

地下経済野郎

みたいなのがいるわけだこの世界には