実際のところ

オレがオレの日記を書いたとしても面白いなあと思うのは

オレだけなのだが

 

それはそれが日記だからだよねえ

 

人の書いた小説がなぜそんなにもオレのこころに響くのかといえば

それは

 

それは昨日かいた「アイドルちゃんを応援」にも似たこころがあると

思うのだが

 

なんで「あの川のほとりで」を読んでいるときには

ああまたいつものアーヴィングの節だなあと思っていて

読んでいても超自然的な展開とかなぞの女性とか

なぞってなんだよとか思いつつも

読みおわって数日とか週とかたってから今でも

その小説の中の世界をなつかしくオレもそこに

いきたい・・・見たい・・・雪でおおわれた

湖を見たい・・・過ごしたい・・・とか

女性が空から(  で)降ってくるのを見たい・・・とか

すごく思うのはなぜなのか(好きになってしまったのはなぜなのか)

考える

 

わけです

 

最近になってやんちゃん

金川紗耶さん)

がインスタを開設してそれをフォローしたので

どんどんやんちゃん情報とか写真とかがはいってくるのだが

それをみていると

うっとりするね

 

52のおっさんがうっとりとか書くとそれは

キモいと誰もがいうであろうしオレだってそう思うよ

 

しかし事実を(オレの中の観測した事実を)

曲げるわけにもいかず

じっさいうっとりしているのでしょうがない

目で見るうっとりである

 

それもこれもオレがやんちゃんを応援したいと思っているからであって

 

そのことに価値がすごくあると感じるからですね

 

というわけで価値の話にもどってくるのである

 

グレーバーが価値を定義することの困難について書いていたが

それはオレにはいま思われるのは

価値を価値いがいの言葉で定義することがすごくむつかしいからではないかと

思う

いわく

やりがいがあるとか

それをしたくてたまらないとか

行為についてはそう言えるし

モノについては

それを所有したいとかさわりたいとか

いつもふれていたいとかそのモノのことだけを考えていたいとか

そういうことですわね

 

これが「人間対象」になると

行為とモノとが合一したことになっており人間というのは事象であるから

その人間との対話とか見る眺めるとかそういうコミュニケーションでもあるし

ものとしてそこに「ある」ことを見たり観測したりするものでもある

コミュニケーションは一方的で応援だけだとしてもそれは行為として成り立つし

集合としての「応援」から「消費」(対価)があれば

客体としてのアイドルちゃん本体にもその情報は届くのである

ところで「推し消費」っていったいそれなんですかって話になるよね

 

ふつうの意味(伝統的な意味)での消費とはあまりにもかけ離れているのが

推し消費である

 

という話よ

 

ゴミのような紙に写真が印刷してあるものが宝物になるというやつだね

 

それは映像再生機に像がうつっているだけ

なのにタカラにみえるということでもある

 

身も蓋もない

 

ともあれ紅白歌合戦で日向坂と乃木坂を応援することは

できる

 

ことしは内村とか大泉とかいないといいんだけど

たぶんどっちかは必ずいるんだよなあ邪魔だなあ

とくに大泉が邪魔でうるさくてしょうがないのに

いるんだよ

どうしようもない