皐月のカレンダー
(毎年「てんこく」カレンダーを使用している)
に
みどりの日って書いてあったからそうでしょうてな
FLOをイヤホンできく
密閉型
早朝起床で
ラジオ深夜便のエンディングをきく
音楽は夢ごこち
そのまま
流れに乗っていくままどこまでも浮かんで流されていきたい
ものじゃわい
残念ながら重さがあるのでそうも軽くは流れていかないのだが
『生成と消滅の精神史』
の「プロローグ」から
みはじめたのだがいきなり主題「心は現代においてあまりに多くの負担を強いられているのではないか」(オレの記憶の文章なので引用とは違うところがある)
からはじまるって
しかし
それは心が「感じる」部分ではあるものの
じつは感じただけでそこからすぐ流れていってしまうところも
多々
あるということで中になにか残るのか残らないのか
残らないということは「消滅」である
とな
そういう意味のタイトルなんじゃないのかん?という予想
たしかに心は「ビビッドにすぐそれを感じる」ことはできるが
「感じたことを改めて咀嚼し直したり考えつづけたりすること」は
心の担当ではないのではないか
(じゃあどこだってことになるんだけど)
なんで小説と哲学(あるいは詩)がそれを担当しているのかって
いえば
「感じる⇒考える」の時間のかかるプロセスの中で
それを外にもわかる形にして出すときに
加工と装飾が行われているっていうかんじで
ところで心は「言葉」を使って感じているのだろうか?
言葉を使った瞬間からそれは「考え」になるのではないか
というのがオレの考えだ
考えは言葉を使う方法しかないそれしかできない
言葉を使わないものは「考え」ではなく「感じてる」
の段階で
快感を感じるのも不快も痛みも熱さも
すべて感じているしそれは瞬間の到着で
あっという間というけれど
無時間の到達で
それこそ「考えてる暇はない」のである
言葉が生まれた瞬間から遅れが誕生した
みたいなね