恐ろしい感じ’(惑溺

わくできって

感じの漢字の形だけでもおどろおどろしいよね

 

朝でなんとなく自分の日記をみているとアルバイト・リストがあり

(なぜ自分の日記をみているかというとそれは

書く

にあたって自分の中の井戸を掘れじゃないけど過去を

ほりかえすとなにかこれまでの認識の下にかくされたなにか

隠しておきたかったもののヒントとかねえかなと思って)

 

1995について

というののリンク(とげったー)

が今も生きていて

 

たぶんだれかがこれはちゃんとWaybackMachineに入れてあるさ

元URLだけあればさ

https://togetter.com/li/91293

 

さて

そういう過去のことを当たっていると自分も自分の

日記をみてしまったりすると

 

病院のときのオレの同年の看護師ちゃんって誰?

とか思うのだがもう思い出せないね

 

過去は甘く

そんなのにかまけていてはあかんと思いながらも

甘いのでだらだら閲覧してしまいますね

いけませんね

2023なのに

 

どうしてもオレは1990年代のオレのことが思い出せないというか

なぜそんなに「現在」だけをみて生きていられたのかが

今になって不思議なのでそれが気になっている

 

過去への後悔も未来への不安もなく現在を生きるだなんて

あるいみでは理想ではあるものの

あるいみでは無謀でもあり

なぜなら「未来への建設計画」が何もないからですね

その日の食う金がそこにあればいいという

あったから生きてるんだけど

 

だからなにしろ通帳の残高は知っていたけど

労働はしているのかしていないのか

1990年代だからバイトとバイトの間のなにもしてない

時間も多かった(ので図書館があったことがありがたいわけで)

んだろうと思うが

令和のいまのオレのようにシステマティックに図書館を活用はしていないはずで

もっと刹那的なかんじ

まあ杉並区中央図書館はAV資料も充実してましたから

いくらでも消費できる

 

まあ「知らない」から怖くなかったということでひとつ

 

しかしそれこそ

当時の書籍とか大部分友人の古書業の男に売ってしまったし(2008に売ったね)

 

1995を見る視点でいえば阪神淡路大震災とオウムサリン事件テロリズムなのだが

どっちにしろ人間はたくさん死んだわけで

東日本大震災でもたくさん死んだ(行方不明ではなくその人たちは死亡者)

わけで

いまもウクライナロシア戦争で人間は死んでいるが

 

おりしも2023は広島でG7サミットとかやりやがって

核を削減したい宣言的なものをしているが

どうにも戦争の前にことばが無力であるみたいなことも

あるわけで

なぜならゼレンスキーの前では言葉が無力に感じられるだろう

何を言おうともゼレンスキーと直接対話するなら

「ロシアを戦争で撃退するのが唯一の目的」くらいに

同意しなければゼレンスキーとの話はつうじないだろう

そんなときに「そもそも戦争は・・」などと平和論ぶったとしても

ウクライナで戦争で人間が殺されていることを前提として

ゼレンスキーが「だからロシアを戦争で攻撃で殺しながら撃退押し返すしか解決はない」と言ったときに

「それはいかん」などと言える奴は誰もいないし実際G7は

アメリカをはじめとしてウクライナに武器供与をまだまだ続けると

言って宣言しているわけです

戦争反対という奴は誰もいなくてロシアを撃退しろとはいう

手段は戦争だ

やられた分をやりかえさないといけない

21世紀のわれわれの持っている手段の中で現実に適応できそうなのが

それしかないという体たらくの低レベルであるのである

 

だから変な話しでアナロジーとして「金と女の話ししかできない男」を

考えていたが

「戦争においては現実として敵を殺し陣地を取り返すことが唯一の

目的である」と言う男が現実の対応のできる男だって話しになるつまりその男がゼレンスキーである

バランスをとる意味では意見として「ウクライナにおける反ゼレンスキーのうごきは一切国際情報として漏れて出てこないのでウクライナの内国においては国内ではゼレンスキー独裁的な集権で反対意見を封殺していることが想像される」

こともあるわけで

たしかにそうとも言えるだろうし

 

だからオレが考えることとしてはそれは「ウクライナとの連帯を高めよう!”」

なんてことでは絶対にない

オレはオレのことしか考えないという態度をつらぬくしかないのでオレが考えることはこれらの事態が日本において起きたと想像したときに

やはりおそらく「敵を殺せ」「さもなくは敵に殺される」となる現実の事態が

おきて

おきたときにオレが武器をもって敵を殺しにいけるのかということの想像で

それこそ大岡昇平が戦地に送られた(年齢的に送られるわけねえと思っていたのに!大岡は35で)ことを書きのこしてくれていることが今でもそれは材料として考えに使われないといけない

水木しげる先生は20歳で乙種合格してしまっているがこれは1922生まれという世代の問題でもある)

のだと思うわけです

英雄とか勇猛果敢なといわれる男は平時ではチンコまるだしコメディアンでもあるというのが事実で(それもゼレンスキーのこと)

同じ人間なのである

 

戦争も地震も突然人間が死ぬという意味では同じだし

ある意味他人の攻撃も地震による自然の猛威も人間ひとりの力ではとうてい勝てないもので死んでしまうのも無理はない

他人の攻撃がひとりであればその他人を殺すことで生き延びることはできるかもしれないけどね

敵ってのはたいてい卑怯であり

それは見た立場の問

地震は卑怯というよりは自然なので非人間的であるにきまっている