とはいえ

高校生がコドモに見えるというのは

かつてのオレが高校生だったときの

オレも高校生としてコドモというか未熟というか

たのしかったけど未熟だったと思う

それは他人のありかたに

嫉妬とか羨望とかいろんなことを

隠せず制御しきれずもてあましていたからだと

思っている

 

他人がどうでもいい(他人が幸福であることをイヤだと思う気持ちこそが

アレである・・・・・

なんだっけ・・・・

「定義」としてなんとかなしい定義だ

思ったんだ・・・TVかラジオかみてて・・・100分名著の

アリストテレス「ニコマコス倫理学(4)」だったような・・・

しかしなんだろう・・・「友情」の反対語だろうか・・・)

 

他人がどうでもよくなるのは自分が大事だからであって

自分が大事というのをエゴイズムではなく

本来の意味で自分が自分の主人である

という考えがほぼ身の丈と同じくらいの大きさになり

違和感がなくなったのはつい最近だからである

 

というか他人様はオレがどうこうできるものではない

どうこうしたいという気持ちそのものが

いうなれば悪であって

戦争というのは他人様の考えや行動や土地を踏みにじって

自分の好きにする行為である

戦争で攻め込むということは

その土地とその土地に住む人間を

まるごと

土地と人間とを蹂躙するのが戦争だ

 

ってこのたびの2022FEBからのウクライナ戦争ではそう

思ったんだけど

その前からシリアの泥沼内戦国際紛争とか

アフガンの惨状とか

世界にはたくさんのそのようなおなじ悪夢が

前からあり今もあるんだなあと

思って

 

だから他人について「くやしい」とか

思うこと自体がそれは他人とのかかわり方として

よくないというか

そういうのをのこしておくと毒になって自分をむしばむよ

と昔のオレにいってあげたいのだが

 

まあいまがいいからいいです