高校生がコドモに見えるというのは
かつてのオレが高校生だったときの
オレも高校生としてコドモというか未熟というか
たのしかったけど未熟だったと思う
それは他人のありかたに
嫉妬とか羨望とかいろんなことを
隠せず制御しきれずもてあましていたからだと
思っている
他人がどうでもいい(他人が幸福であることをイヤだと思う気持ちこそが
アレである・・・・・
なんだっけ・・・・
「定義」としてなんとかなしい定義だ
と
思ったんだ・・・TVかラジオかみてて・・・100分名著の
しかしなんだろう・・・「友情」の反対語だろうか・・・)
他人がどうでもよくなるのは自分が大事だからであって
自分が大事というのをエゴイズムではなく
本来の意味で自分が自分の主人である
という考えがほぼ身の丈と同じくらいの大きさになり
違和感がなくなったのはつい最近だからである
というか他人様はオレがどうこうできるものではない
し
どうこうしたいという気持ちそのものが
いうなれば悪であって
戦争というのは他人様の考えや行動や土地を踏みにじって
自分の好きにする行為である
戦争で攻め込むということは
その土地とその土地に住む人間を
まるごと
土地と人間とを蹂躙するのが戦争だ
ってこのたびの2022FEBからのウクライナ戦争ではそう
思ったんだけど
その前からシリアの泥沼内戦国際紛争とか
アフガンの惨状とか
世界にはたくさんのそのようなおなじ悪夢が
前からあり今もあるんだなあと
思って
だから他人について「くやしい」とか
思うこと自体がそれは他人とのかかわり方として
よくないというか
そういうのをのこしておくと毒になって自分をむしばむよ
と昔のオレにいってあげたいのだが
まあいまがいいからいいです